2001年1月6日

神について思う

老   い


 なぜだろう、若い頃は、死など怖れなかったのに、年をとると死ぬことが恐ろしくなってくる。

 老い。
 年をとり、衰えが見えたら、早く現役を退き、何もしないで暮らせばいいと言うのが現代人の考えのようだ。それが現代流福祉の考えの基本である。
 だから、当人が、また、周囲の人間も、まだまだ元気に働けるというのに、どんどん仕事を辞めさせて、第一線から退かせていく。
 仕事の効率やコストからすればそれが正しいのだろう。しかし、社会は、経済効率だけを目的としているわけではあるまい。本来、社会は、人間の幸せを追求するための仕組みであるはずなのである。
 そうなると、仕事は、ただ生計を立てるためというのと別の意味が生じてくる。仕事は生き甲斐なのである。仕事は、自己実現の手段なのである。
 定年、退職、引退、隠居。人は、なぜ、それほど、高齢者から世の中との関わり合いを、断ってしまいたいと思うのだろう。唯物論者の残酷なところだ。
 それまで働いてきた職場から切り離されることで、まだまだ引退せずに働きたいと思う者は、慣れない仕事を、自分の孫子と同じくらい若い連中と同じ土俵で争わなければならなくなる。年をとった者に、それがいかに惨めで、過酷で、自尊心を傷つけられることなのか、引退を早めようとしている連中は気づいているのであろうか。
 早く引退させてしまえ、その方が本人にも社会にもいい事だと言うのは、労働や仕事を蔑視し、忌み嫌う発想が底辺にあるからである。つまり、仕事労働は、辛いことであり、なるべくならば楽をして生きていたいと思っているのである。
 しかし、本当に仕事や労働から解放し、何もしないで遊んで暮らすことが理想的な生き方なのであろうか。
 それは、特権階級的な生き方、つまり、労働者の対極にある生き方であり、労働者のために言いながら、結局、労働者を否定する考え方である。労働者を労働から解放したら、何が残るというのだ。
 労働が、過酷な苦役となり、拷問に等しいものになったからこそ、問題になったのだ。しかし、過酷な労働というのは、労働が本来持っている意義を喪失しているのである。非人間的、非人道的な仕事を基準にして仕事や労働を考えたら的はずれになるのは必然的帰結である。
 仕事や労働から解放すると言われて、仕事や労働を奪われて喜ぶと思うのだろうか。
 むしろ、世の中との関わりを失い。社会から忘れ去られていくことの方が、どれ程恐ろしいことか。 生き甲斐を失ってしまう。
 人は、自分が必要とされていると思うからこそ生きていける。自分を必要としてくれる人がいるから頑張れるのである。それが生き甲斐である。
 それを、もう、あなたは居なくてもやっていける。あなたは必要ないんだ。だからゆっくりと休んでくださいなんて言えるだろうか。よく言えるよ、あなたの居場所はもうここにはない。あなたは居なくても良いのだと。
 仕事や労働を馬鹿にしてきたツケが廻ってきたのである。
 むしろ、死ぬまで働けるというのは幸せなことだ。
 その証拠に、権力者で、自らが健康なうちに権力を譲った者などいたためしがない。一見、禅譲したかに見えても、無理矢理権力の座から引きずりおろされたに過ぎない。それは、権力者が老い衰えたからである。結局、多くの独裁者は、権力に死ぬまで、しがみつき、権力の亡者となって滅んでいったのである。
 老いても活躍できる場を与えることが、本当の思いやりというものである。それが現代人には解っていない。早く現役を退かせ悠々自適の生活をおくらせるのが親切だと思い込んでいる。
 老いを受け容れるのは、難しいことだ。何かの拍子に白髪を見つけだした時、もう若くはないわと呟いた時、皺を見つけた時、人は、老いを感じるのだろう。老いを受け容れているわけではない。まだまだ、若い者には負けないと気負い込む。そして、無理をする。
 しかし、老いを認めるというのは、一つの境地に達したことを意味することでもある。
 かつて、女流登山家の今井通子が、十八から二十二までは、何もしなくても成長していく。二十二から二十六までは、努力すれば上達できる。二十六から三十までは、練習を怠らなければ、現状を維持できる。三十過ぎるとどんなに頑張っても衰えていく。その時、自分は、北壁に挑戦する権利をえたと思ったと語っていた。それが一つの境地である。
 老いを受け容れるのには、時間がかかる。反面、若さの尊さを自覚するのも時間がかかる。気がついた時には、老いが忍び寄る。と言うよりも、若いという事のすばらしさは、老いてはじめて知る。自分の衰えを否応なく認めさせられた時、老いを自覚させられるのである。
 それまで自分ができたことができなくなっったり、自分の先が見えてくる。自分の衰えを自覚した時、自分の老いを知る。若い者には、負けないと強がったところで、後から来た者にどんどん追い越されていく。時は、残酷である。取り返しようがない。命短し、恋せよ乙女である。自分の未来が、能力が、可能性が一つ一つが奪われていく事、それが老いる事である。しかし、限界が見えた時こそ、違う地平が見えてくるのである。それこそが新境地なのである。
 老いは、肉体的衰えとともに明らかになる。老いとは、徐々に肉体的に壊れていくことなのである。諸行無常。しかし、肉体的な衰えとともに、精神的な輝きを増してくることもある。重要なのは、生きる道、生きてきた道なのである。その生きてきた道を奪うことほど残酷なことはない。それを福祉の名の下に行うのだから、残忍な話である。
 老いとは、衰えである。自分が衰えていくことを静かに受け容れることなのである。その時、何か別の世界、若さだけを頼りに結果を追い求め。ただ闇雲に、がむしゃらに、ひたむきに、走るだけで満たされてきた生き方から、もっと違う何か。それは、ある種の達成感や、充実感、また、仲間達との共感や共鳴、そして、感動や一体感、そうした自分以外の何者かの存在に気がつく瞬間でもある。それが一つの境地に達することなのである。ひたいに刻まれた皺の一つ一つが、その人が生きてきた軌跡、生き様、勲章(くんしょう)なのだと思えるようになる瞬間(とき)。自分の人生を誇らしく思えるようになった時。それが老いを静かに受け容れると言う事なのだろう。
 しかし、それすらをも奪い取り、人間としての尊厳も名誉も、何もかも、泥を塗ってしまう。あなたは、ただ、老い衰えた、役に立たない、みすぼらしい、抜け殻なのだと世間に放り出す。新しい仕事を探せば捜すほど、自分の無力さを思い知らされる。そんな社会。確かに、それまでは、自分を必要とし、自分を生かしてくれた世界が厳然としてあり、そこでは、誰もが、尊敬や敬意をもって接してくれたのに。一度、楽園を追われるとそこには、無力で、役立たずの老人でしかない己(おのれ)がいるだけなのだ。誰も、敬意も礼儀も払ってくれない。敬意や礼儀どころか、侮蔑や嘲笑の対象でしかない。
 なんて残酷な仕打ちであろう。年老いてから、新奇なことを若い者達と同じところからはじめなければならないなんて。
 それを楽園というのか。よく目を開いてみてご覧なさい。所在なげに、公園で一日鳩に餌をやるしかない老人達の姿を・・・。
 社会をただ、効率性だけで見ている。そして、仕事や労働は、ただの頸木(くびき)であり、早く解放してやればいい。そう思い込んでいる人間達。彼等こそが、この世に不幸をまき散らしているのだ。仕事こそ、生き甲斐なのである。仕事を自己実現の場だと思えない者は、不幸である。職場こそこの世の楽園なのである。
 労働は、喜び、仕事こそ生き甲斐なのだ。たたひたすらに、自分の技術を磨き、力の衰えとともに熟達していく仕事もある。労働や仕事を単なる時間の単位だと思っている限り、労働の喜びはえられない。働くことは、修業なのだ。働けるうちは働き続けたい。自分の限界に挑み続ける時、常に新たな自分を発見しうる。それが生業である。
 職人は、衰えを知らない。年相応の仕事ができる。年とともに磨き込まれる業があるのである。それを否定するのは愚かである。年はとっても生きる道はあるし、生かす道はあるのである。長い歳月と、経験でしか到達し得ない仕事がある。
 老いることは、恐ろしくはない。ただ、それは、自分が生きる場所があるからこそであり、自分を必要とする人達がいるからこそである。自分にしかできない仕事があるからである。



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