神について思う

自責の念


時として自責の念が自分を狂わせてしまう事てあるんですよね。
自分が許せなくなって、その思いに自分が押しつぶされてしまう。
それって始末に負えない。
自分で自分が許せなくなると、人格までも破綻させてしまう。

どんなに話してもわかってもらえない。
言えばいうほど、悪くとられる。
言ったって仕方がなてことって、人間関係の中にはいくらでもあります。

しかも、そういう事ってどうでもいい事、特に、他人から見たらどうでもいいことが多いですね。
だから、誰にも話せず、相談もできずに、一人悶々とする。

でも当人にとってそれは重要で何とか克服しなければならない事なんですね。
僕は、そういう話を多くの仲間から聞かされてきました。

例えば最愛の人達。挫折した時や失敗した時、理解してほしいと思うのですが・・・。

一番つらくて困難な時に、得てして理解してもらえないものです。
そう思っても、やっぱり、しんどくなるとイライラしたり、愚痴をこぼしたり、
時には、それが弱々しく見える事もあると思うんですね。
また失敗したり、挫折したり、旨く行かない時も、相手から見れば負け犬に見えたり、
それまで抱いていたイメージが急に色あせたりして。
でも本当の強さというのは、そのどん底から這いあがていくときにあるのですが、強さや優秀さ(それは幻想なのかもしれませんが)を求めてきた人から見ればみすぼらしく見えてしまうのかもしれません。
その時、見限ったり、見捨てたりするとそれから立ち直った時には今度は自責の念で受け入れられなくなる。
そういう葛藤というのは、当事者には関係ないですからね。
でも、当人には受け入れがたいものになってしまう事ってあると思うんです。

でも仕方がないと思うのです。
どうしようもない。

だから自分を生きるしかない。
神を信じて。

人は、表面の変化しか見ないと思うのです。
表面に現れた変化しか。
でも表面の変化を引き起こしているのは、表面に現れない変化、構造とか仕組みの変化ですね。
そこを変えなければ何も変わらない。そして、その表面に現れてこない変化というのは、実は、古くて新しい問題、基本的な事なんですね。
日本も戦後、基礎の部分が大きく変わり新しい構造が築き上げられてきました。
その基礎にある構造というのは、必ずしも新しい原理、原則で作られたわけではない。
問題は、新しい技術や知識ではなく。成長発展という過程ですね。そして、成熟するにしたがって失われた部分、老朽化した部分、機能しなくなった部分ですね。それをどう変えていくかなんです。
ところが人は、表面に現れた変化ばかりを追いかける。

人は、形で考える。仕事の形。日常生活の形。食事の形。冠婚葬祭の形。しかし、その形は無意識の中にしまわれていて思考の表層には現れてこない。形を改めないと改まらないのに、動きばかりを追いかけ、変えようとする。動きは幻である。
精神的に追い詰められたり、体を壊したり。精神がおかしくなるとすぐに体に現れる。
精神的な病は、生活態度を改めないと多くは治らない。
治らないけれど、多くの人は、精神の問題だとして生活の形を改めようとしない。
仕事の段取りが悪ければ仕事はうまく片付かない。仕事がうまく片付かないから精神が不安定なのに、薬でいくら精神を安定しても完治するわけがない。すぐにぶり返す。

何が人々を苦しめているのか、その根本を見ないで上っ面のばかり見ている。それでは何も解決しないのである。

人々の心の奥底にある得体のしれない部分ですね。
説明もできないし、いいようもない。そのドロドロとしたマグマみたいなものが動き出した気がします。
本当は自分たちの問題なのに、他人を責める。その裏側に自責の念が生まれ始める。
自責の念というのは、他人に向けられることがある。自責の念が他人に向けられたとしても、向けられた張本人は理解できない。ただ、自分が意味もなく責められているように感じる。

妙なところで結託して脈絡もなくあなたを責めているとしたら。
それはあなたを責めているのではなく。あなたに対する自責の念で結びついているのではないのか。
僕は時々思うのです。ユダの自殺とか。組合を作った人間がなぜ会社にいられなくなるのか。

自責の念は罪悪感にも発展する。罪の意識ですね。
それは牢固として心の奥底に沈殿する。
自虐的になる。自暴自棄になる。

自分にとってはどうでもいい事なのに。当人にとっては許せない。認めてしまえば楽になるし、自分は、どうでもいい事なんですけど、とても始末が悪い。
当人は認めてしまうとそれまでの自分をすべて否定してしまうと、それ以前に相手は、こちらを否定しているんですけれどね。そんなこと言っても始まらない。許してと言われても困るし、許すとも言えない。
自分が許すといったところで当人が自分で自分が許せないんだから助けようがない。
そのジレンマに陥ってしまうんですね。そして、最終的には自分の力で越えなければならない問題だと思うのです。

リーダーになろうとしている者、リーダーに従おうとしている者の中に、致命的な錯覚している者がいる。もし仮に、すべての面でメンバーより優れているものとすべての面で劣っている者がいるとしてどちらがリーダーに向いているか。僕は、すべての面で優れている者がいるとしたらそのものはリーダとして不向きだと思うのです。
リーダーというのは、人を受け入れる事と決断する事です。全ての面でリーダーが、メンバーより優れていたらメンバーは、活躍する場がない。
野球の監督が現役を退いてから就任するのは、監督より選手の方が優れているからですよ。
私は、リーダーが失敗するとしたら、自分が得意としている分野だと思うのです。
だから先の問いに強いて答えるのならば、全ての面で劣っている人の方がリーダーに向いている。
僕は、その事をある人に教わりました。その人は、私が尊敬する経営者の一人ですが、ある時、僕に「俺は何にをやってもダメな人間だ。だから、人を使う事を覚えた。」と言ったのです。
リーダーの資質で一番求められるのは、人を受け入れるという事だと思うのです。
自分が他の人間より劣っていると自覚していて、人の意見をよく聞いて自分の意志で決断する事ができるのならば、人に劣っているという事は、リーダーにとって障害にはならない。

相手を受け入れられなくて相手をすべての面で越えようとしたら、それは虚しいですよね。
他人を受け入れられないから自分も受け入れられなくなる。
それがやがて自責の念になる。
それは相手の問題ではなくて、その人自身の問題だからです。
相手にとって不条理で理不尽なのは当然だと思うのです。
なぜなら、責められているのは、相手ではなく。自分自身だからです。
だからこの問題の解決は難しいのです。
他人は許せても自分を許すことは難しい。だから私は、神を必要としたのです。


自責の念に駆られている者は、一見相手を罵倒しているようで、自分を罵倒しているんですね。
私が困っている時あなたは助けてくれなかったというのは、私をあなたに置き換えると、あなたが困っている時に、私はあなたを助けてあげられなかった。
私が苦しんでいる時、あなたは何もしてくれなかったは、あなたが苦しんでいる時、私は何もしてあげなかった。
置き換えてみると真意がわかる。真意はわかりますが、自分で自分を許せない限り、解決できない。だから、自分を狂ったように責め続ける。しかも、それは表に現れる時は最愛の人を傷つけ続けるわけですから、耐えられなくなるんですね。

おかしなことに、相手を否定しているはずなので、否定しているはずの相手と同じ道を進もうとする。
どこかで相手とのつながりを保とうとしている。
自分と相手との絆が断ち切れないんですね。

学生時代、友人が、ボソッと相談だか、なんだか話しかけてきたんですね。
「おれはジーパンがはけないんだ。」と。「なぜだ。」と問うと。「俺の親父は学校の先生だった。それはいいんだけれど家に帰ってきても先生なんだ。そういう父親に自分は猛烈に反発したけれど、どこかで父親を求めていて、ジーパンが履けないんだ。」というんです。
それで俺は言ったんです。「俺はお前の気持ちはわからない。ただいつかジーパンを履いたお前に会いたいな。」と。そうしたらしばらく後そいつはジーパンをはいてきました。

自分を責めている奴ってそういうところがあるんです。

相手は責めていなくても自分は責められていると感じるんですね。
だから、言うんですね。あなたはいつもそうやって責めていると。
なんだって自分が正しいと思っているんでしょとか。
全て私が悪いというのとか。
全然言ってないんですよ。
ただ相手はそう受け止めてしまうんですね。かたなしですよ。


どうしようもないんですね。自分でそう思い込んでいるんですから、相手がいくら気にしなくてもいいとか、どうでもいいとか言ったとしても自分で自分を責めているんですから、その人自身が認めない限り解決できないんです。



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