神について思う

パーソナル障害・人格障害



パーソナル障害というのは、アイデンティティの問題でもあると思うのです。
人格の統一というのは、簡単そうで難しい。

一般に人格というのは、一人の人間の内面に統一的に存在している。一人の人間の性格は一つ、能力も一つ、才能も一つ、価値観も一つだと思われている。しかし、実際にそうならば言行は一致し、矛盾はしないように思われる。
現実は、言っている事とやっている事に違いがあるし、複数の価値観が一人の人格に混在している場合が多い。
そして、環境や状況に合わせて局面局面で違った価値観、性格が露出するのである。
しかも、複数の価値観や性格が一人の人格に別々に存在するのではなく、危うい均衡を保ちながら統合的に存在する。
複数の価値観や性格が一つの肉体にバラバラに存在したら人格は分裂する。現に多重人格という症状もある。しかし、一般に大多数の人間は、統一的な人格を保っているし、統一的な人格を保てなくなると社会生活が送れなくなる。
例えば、生活者と兵隊とは、同じ人間でも全く異質な価値観を強要される。
人の肉体は一つである。生きるという事はこの肉体の生存を何らかの形で持続させなければならない。

人格の基盤となる価値観は、自己と外界との相互作用によって形成される。
価値観が形成される時期に極端な思想や環境に合うと価値観の整合性が保てなくなる。

戦後の日本人は、予め問題が設定されていてまた、正解も一つと決められた問題を解く事ばかりを十年以上も学校で刷り込まれている。
しかし、現実の世界は、予め問題も設定されておらず答えもない。問題は、自分で探さなければならないし、答えも自分で創造しなければならない。問題の源は、自己の内にある好奇心、意識にある。問題意識は、内面の心から発するのである。
唯一の存在である自己の内側にある、意識から発する問い掛けだからこそ統一性が保たれるのである。問題意識は、主体的意志に基づくものなのである。
問題はあらかじめ設定されていて答えも決まっていると錯覚している人は、自己の人格の統一性を外に求めるようになる。
自己の人格の統合を外に求めるようになると内面の世界の統一性が損なわれるのです。

なぜ、一つの人格に複数の価値観や性格が混在するのかというとそれは生れて育った環境や人間関係、何らかの事件、置かれる状況、その人の持って生まれた性格や気質、また、遺伝的要素等、色々な要素が複雑に絡み合って形成され一概にこれが原因だと一意的に決める事ができない。
大体、因果関係を一意的に決めつけられないし、決めつけてしまうのは、現代人の悪癖である。

一般に人は、人格を構成する複数の要素が複雑に絡み合っていると思うのです。
複数の要素とは、先天的な性格、遺伝子、能力、養育環境、親との関係、生活環境、幼児期の体験、身体的な障害、欠点、他人から言われたちょっとした言葉等、多種多様で何が切っ掛けなのかも特定できない場合がほとんどです。
ただ何かの事象、出来事に鋭敏に反応していることが原因だと思われる。
ですから、パーソナル障害というのは、感受性が高く、知的な能力の高い人ほど、深刻な形で抱え込んでいる場合が多いと思われます。

近代は、科学を絶対視する事で成り立っているように錯覚している人たちが多くいる。
しかし、科学の前提は相対性であり、絶対性ではない。

科学というのは、矛盾した事なのである。
矛盾していることを前提として成り立っている。
科学に絶対性を求めるのは愚かである。
かといってこの世の出来事全てが移ろいやすいと思ったら、目が回ってしまう。

パーソナル障害が深刻なのは、当人以上に周囲の人間が巻き込まれ。その結果、巻き込まれた人間までもが、何らかの精神疾患に陥る危険性が高いという事です。
典型的な事は、境界性パーソナル障害の原因が幼児期における母親とのかかわりが何らかの形で関係しているのではという事です。
ただ、全ての原因を母親に帰す危険性もあり専門家間でもかなり意見が割れていて慎重な対応が必要だと考えられています。

むろん、パーソナル障害があるから即問題だというのではない。むしろ、それを武器にして、あるいは、バネにして大きく飛躍し、社会に貢献している人も多くいる。
しかし、それが負の作用を及ぼすと周囲の人間に甚大な被害をもたらすという事である。

深刻なパーソナル障害を抱えている人がいると、当人以上に周囲の人間が傷つけられます。その結果、当人だけでなく、関わった人たちの人間関係に重大な影響を及ぼし、家庭の崩壊、友人関係が壊れたり、生活に支障をきたりします。要するに振り回されてしまうのです。
また、過度に精神にストレスがかかり、無力感、虚脱感、うつ等の症状が現れ、最悪の場合、人格の崩壊等を招きます。
ですからパーソナル障害がある人とかかわる場合は、一定の原則を作ると同時に長期にわたることを覚悟する必要があります。

最近は、当人以上に周囲の人間をケアする体制の必要性が叫ばれはじめました。

実際にかかわってみないとわかりませんが、一般の理解というのは受けられにくい。
インターネットにも載っていましたが、家庭は大変みたいよ。普段接触している人は何も気が付かないみたいだけどという状態になり。事実を言っても相手は、周囲の人間は誹謗中傷としか受け取らず。そのために、大切な友人を失ったといことは、よくある話です。

特に、境界性パーソナリティ障害の人は、自分を庇護してくれる人の気を引くために、故意にその人が嫌がる事、その人の自尊心を傷つけたり、また、浮気、リストカット、過食、拒食などをします。
愛すれば愛するほど愛する人を自分に引き付けておくために、愛する人を傷つけ、誹謗中傷をして孤立させるようなことを故意にも無意識にもやります。
今では、むしろ、パーソナリティ障害に係る人はいかに自分を保ち守りながら、矯正していくかが問題になっています。
パーソナリティ障害のある人といかに上手に付き合っていくか。いかに自分が傷つかずに接していくかそれが重要なのです。

人権、人権というがともすると被害者の人権が無視される例が多く見受けられる。人権というのは、当事者とその影響を受けた者とが表裏の関係にある事を見落としてはならない。パーソナリティ障害の問題は、当事者の問題より以上に被害を受けた側の問題なのである。
被害を受けた者の多くは、地位や財産のみならず、家庭が崩壊し、友人関係が破壊され、心に立ち直れないほどの深い傷を負わされている事を忘れてはならない。

今日、人間関係上で、起こっている問題の多くは、同一性の問題だと考えられる。
自分の同一性を保てる人間は、少ないと思われる。
複数の相矛盾した価値観が混在していてその統一性を保つ事が困難な状態に多くの人は、陥っている。

多くの人は、自分の行為を反省し、次の行為に活かそうとする。
しかし、自己の存在が不安定な者は、継続的な自己を維持する事ができなくなり、刹那的な判断、その時その時の好き嫌いによって行動する事がある。
心の均衡が保たれないから、自己を抑制し、制御する事ができない状態に陥っているのである。
人は、一般に物事の全体の中に事象を位置付けて判断するが、自己の継続性を失った者は、全体を見ないでここの部分に反応する傾向がある。普通人は、良い事と悪い事を同時に想定しながら、心の均衡を保っているが、自己の統一性を失っている者は、良い事は良い、悪い事は悪いと個々別々に受け止めてしまう傾向がある。それが極端から極端、オール・オア・ナッシングな判断に陥り、曖昧な判断を受け付けなくなる。しかし、世の中には、黒白がはっきりした事ばかりではない。そういう局面になると自己を制御する事ができなくなるのである。

人格の統一というのは、簡単そうで難しく。
ほとんどの人は、人格を構成する複数の要素が複雑に絡み合っていると思う。

これは一人の人格上だけでなく、社会にも言える事である。

同一性というのは、全体との一体感であるが誤解してはならないのは、個々の部分は個々の部分の個性や主体性を保ちながら全体との一体性を保つという事である。

パーソナル障害の一番の問題は自己がないという事である。

個々の主体性や個性を尊重性を保ちながら全体の統一性を保つという事は、個々の主体性を超越したところに存在する、個々の個性を超越した存在を想定する以外克服する術かありません。

だからこそ、全体を統一するためには、個々の部分を越え全体を統一する何者かの存在を想定しなければならなくなる。
それが神なのです。

パーソナリティ障害ではないのかと思わせる人を知らないわけではない。中には、自分をターゲットにしているのではないのかと思われる人もいる。しかし、だからといってなんでもかんでもパーソナリティ障害で片づけるのは行き過ぎである。
最近は、なんだかんだとさも、尤もらしい病名を付ければ問題が解決すると考えている人がいるが、実際はなにも片付いていない場合が多い。
薬を使えば、表面に現れる症状は緩和されるかもしれないが、本当にその人の魂や精神が癒されるわけではない。

パーソナリティ障害とは、自己の喪失なのである。自己を失うか、元々持てないか、それが原因なのである。自己を取り戻すか、確立しない限り癒える事はない。救われないのである。

結局、自分を信じる事ができない。自信のなさがパーソナリティ障害の陰に隠されている。
自分を信じる為には、自分の存在を保証する自己を超越した存在を受け入れ、信じる以外に救いはない。
曖昧模糊とし、頼りなく危うい自己の存在を信じるためには、唯一絶対なる存在を信じられるか否かにかかっている。
確かな存在を信じられなかったら、見失ってしまったら魂は、よりどころを失い彷徨うのである。

自分を信じる為には、自分の存在を保証する自己を超越した存在を受け入れ、信じる以外に救いはない。
曖昧模糊とし、頼りなく危うい自己の存在を信じるためには、唯一絶対なる存在を信じられるか否かにかかっている。
確かな存在を信じられなかったら、見失ってしまったら魂は、よりどころを失い彷徨うのである。




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