2001年1月6日

神について思う

絶対と相対



 絶対的というのは、他と比較せずにという事であり、相対的というのは、他と比較してという事である。他と比較せずにという事は、他に比較する物がないという事であり、他に比較してという事は、他に比較する物があるという事である。絶対的にという事も、相対的にという事も認識の仕方に関してであり、その対象そのもの問題ではない。ただ、本来、存在は、他と比較することによって存在するわけではない。故に、存在その物は、絶対的な物である。しかし、認識は、他との関係によってするものであるから、認識によって生じたものは相対的なものといえる。

 人間の認識は、差によって成り立っている。人間の認識が生み出す、意識も差によって成り立っている。意識が創り出す社会制度も根本の原理は、差によって生じるのである。しかし、存在には、本来差はない。つまり、存在において人間は、平等なのである。

 絶対的なのは、存在である。認識は、相対的である。存在は完全である。認識は不完全である。この関係や状態が空なのであり、ダルマ(法)なのである。

 相対的なのは、認識であって、対象が相対的なのではない。この事を間違えてはならない。論理的に矛盾しているからと言って対象が存在しない決め付けるのは、早計である。矛盾しているのは、論理であって対象ではない。矛盾は、認識の問題である。対象が存在するか、しないかは、直感でしかわかり得ない。

 認識上の世界は、不安定で、一定しない。しかし、存在は、確固不動の世界である。認識が創り出す意識の世界も無常な世界である。

 この明確に区分ができないと、我々は、対象を正確に捉えることはできない。

 たとえ、自然の法則でも仮定に過ぎないのである。物理学的法則が否定されたとしても存在は否定できない。それは、物理学は認識上の問題であり、存在上の問題とは次元が違うからである。自然の法則も探求する過程が重要なのである。

 未知の法則を将来発見した時、今の法則を絶対視している者は、どうするのであろうか。科学者の多くは、科学の法則は、相対的だと言いながら、実際には、絶対視している傾向がある。それは科学者の思い上がりである。物理学が発展する以前から、自然界は、独自の法則によっていたのである。物理学が発達したから、物理法則が成立したわけではない。所詮、物理法則は、認識上の仮説の一種なのである。

 決まるまでは、いろいろな議論があっても一旦決まってしまう、結論が出るとそれを所与のものとしてしまう。そして、絶対的なことのように教えられる。特に、日本人は、一度、制定施行されると批判すら許さない。所与の法則として捉える傾向が強い。そして、学校では、教科書に所与の事実として記載する。
 こうなると教科書は、一種の聖書である。つまり、そこに書かれている事は、絶対的な真理と見なされてしまう。しかし、人間が生み出した体系に絶対的なものはなく。全て相対的である。科学も仮説、仮定に過ぎない。

 自然の法則ですら相対的なのだから、人間社会の法や制度は相対的な体系である。法や制度の多くが、決まるまでは、いろいろと議論があり、紛糾した事でも、一旦、決定され、結論が出ると所与の物として扱われ、教えられる。会計制度が好例である。しかし、法や制度は、自然の摂理を探求するのと、わけが違う。人間の意志によって定められたものである。

 この世の法や制度は、相対的な体系であり、絶対的な体系ではない。普遍的な法や制度はない。法や制度は、人間の意識が生み出した体系である。故に、人間の法や制度は、相対的な体系である。会計制度も然りである。人間の法や制度は所与の体系ではない。人間が生み出した体系である。人間によって変えることが可能なのである。
 人が生み出すものは、不完全なものであり、完全なものはない。ただそれは、存在自体が不完全なのではなく。人間の意識が不完全だからである。

 絶対的な基準は、基本的に他と比較するものがないのであるから、差が生じない。絶対的な基準に基づけば、差がないのだから、同等、平均的なところに落ち着く。
 しかし、基準は、認識が生み出す体系であり、絶対的な基準はあり得ない。故に、社会の基準に絶対的基準を当て嵌めること自体、認識上の問題から逸脱する行為である。つまり、社会性の喪失である。

 人間の社会は、人間の意識が生み出した世界である。故に、認識上の世界である。即ち、差によって生じ、差によって成り立っている。

 男と女は存在において、差はない。しかし、男と女は、差によって認識される。又は、差を付けることによって認識される。差は認識上の問題である。そして、その差によって位置付け、運動付けられ、関係付けられる。それが相対化である。つまり、人の世は、差に依って成り立っている。

 問題は、その差が、認識を越えて存在そのものまで規定することである。男と女には、認識上差がある。しかし、その差は、その人間の存在を規定するものではない。人間は、その存在において平等である。つまり、認識上の差は、社会を構成し、維持するために必要なのであり、それ以上でも、それ以下でもあってはならないのである。

 差が認識できなければ、分別がなくなる。しかし、その認識上の差。分別を超えて人間そのものを差別することは許されない。

 神は、存在を司り、人間は、意識の世界を創造する。故に、神は絶対であり、人の世は相対的なのである。



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