2001年1月6日

神について思う

神と民主主義



 民主主義は信仰である。

 現代、日本人の多くは、民主主義というと、無神論、つまり、神を否定したところに成り立っていると思い込んでいる節がある。無神論とまでは行かなくとも、神が不在なものだと錯覚している。だから、宗教だとか、神などと言うと、何か、前近代的で、不合理なものとして考える。
 逆に、新興宗教は、神秘主義的で、前近代的なものを装う。不思議なことにその方が、信者の獲得に都合がいい。だから、宗教は、ますます、迷信だと思い込まされる。宗教は、超自然的、超能力的なもので、民主主義や近代科学と相対立するものだと言う捉え方が一般的である。
 しかし、民主主義は、神と密接に関わり合っている。また、欧米においても、イスラム教国においても、宗教は迷信などではない。厳然たる事実、真実である。むしろ神を否定する者こそ、不合理な存在、不道徳な存在である。

 神の前の平等。この理念がなければ、民主主義も国民国家も成立しない。
 故に、唯一で、絶対なる存在を前提としなければ民主主義は成立しないのである。日本やアジアの国で、民主主義が根付かない原因の一つでもある。無神論や多神教との言う民主主義は、人本主義である場合が多い。それは、絶対なる存在との関係の上に成り立っているのではなく。人と人との関係の上に成り立っている体制である。そうなると人間の都合で、如何様にも変わってしまう。或いは、言葉の解釈や形式に捕らわれて教条主義的な体系に堕するのがオチである。

 民主主義は、超越的存在を前提としなければ成り立たない。普遍的存在、絶対的存在を前提としない限り成立しないのである。つまり、民主主義は、神によって創られた体制なのである。

 近代以前、即ち、国民国家が成立する以前は、国家は、存在しても国民は、存在しなかった。つまり、国家は、単なる権力機関に過ぎなかったのである。それが、国民という概念が形成されるに従って、国民国家としての近代民主主義が育まれたのである。
 国民と言う概念の有無が、古代の共和制と決定的に違う点である。この国民という概念は、主体的存在としての個人を土台にして形成された。即ち、個人主義によって生み出された概念である。
 主体的存在は、絶対普遍なる存在と自己とが、一対一に対峙することによって成立する。この様な、絶対普遍なる存在は、自己を超越した存在、超越者でなければならない。つまり、神的な存在でなければならないのである。この様な絶対普遍な存在に対し、有限で、不完全な認識しか持ち得ない自己とが厳しく対峙することによって、主体的存在、自己が確立されるのである。

 自己の認識が、不完全なものとして自覚した時、人間は、所有という考えが生まれた。神は、所有せず。代わりに、人間が所有する。それが発展して国が生まれた。つまり、国家は、所有権の延長線上にある。国家を所有する者が、特定の権力者や特権階級でなく、ひろく一般にまで敷延化された体制、それが国民国家である。この国民の観念を土台にして、近代民主主義は成り立っている。

 この所有権を超越した存在を想定しないかぎり、国民国家は生まれない。特定の権力者や特権階級に国家が、帰属している限り、国民国家は成立し得ないからである。 

 超越者というのは、あらゆる体制も、思想も、宗教も越えたその向こう側にある存在である。その超越者を前提としない限り民主主義は成り立ち得ない。

 現代日本は、神が不在である。日本人が、民主主義を神が不在な体制だと信じ込んだからである。その為に、日本に、真の民主主義がなかなか根付かないでいる。

 民主主義の前提は、自由である。

 自由とは、主体的存在を根本前提としない限り成り立たない。即ち、主体性の確立である。この様な、主体的存在は、自己である。自己は、内面の規律、即ち、道徳を前提して成り立っている。よく、自由とは、何でも許されているわけではないと知った風なことを言う人間がいるが、それは、自由の定義を明確にした上で言っているわけではない。自由とは、外部からもたらされるものではなく。内面の規律からもたらされるものである。内面の規律、自己が確立されていない者に、自由など最初からないのである。欲望の儘に行動する事は、不自由である。つまり、欲望によって自己の制御ができなくなっているのである。これは、欲望に隷属しているに過ぎない。自由とは、自己を自己の支配下に置くことである。自分で自分が抑制できなくなれば、それは、不自由である。

 大体、本来相対というのは、絶対な対置されることによって成立する概念であるが、絶対な存在は、それ自体で成り立っている。我々が一般に言う絶対とは、相対化された絶対である。同様に、客体とは、主体に対置されることによって成立する概念である。それに対し、主体は、それ自体で存在する。我々が一般に言う主体とは、客体化された主体である。不完全も然りである。不完全とは、完全に対置されることによって成立する概念である。しかし、対象の完全性は、そのもの自体の問題である。我々が一般に言う完全というのは、意識によって、不完全にされた完全である。
 つまり、相対とは、絶対と相対とを正しく認識しないと理解できない。客観とは、主体と客体の関係を正しく認識しなければ理解できない。不完全も然りである。
 そして、この認識の上に民主主義の論理は成り立っている。

 絶対というのは、比べる者なき存在に対して言う。それに対し、相対というのは、他者と比較することによって成立する。他者と比較して、相対的であるか絶対的であるかというのは、全く違う次元での問題である。

 対象を相対化する為には、超越者の存在が前提となる。日本人は、この超越者の存在を認めない。日本人の言う神は、超越者としての神ではなく、超自然的な存在である。超越者と超自然的存在との違いは、超越者というのは、万物全てを超越した絶対普遍な存在であり、この世の全てを支配する者という意味だが、超自然的存在というのは、自分達の認識を越えた、理解を超えたという存在でしかない。だから、超越者との契約は絶対であるのに対し、超自然的な存在との契約は、基本的には、人との契約と大差ない。ここに重大な差がある。つまり、神掛けてと言った場合、一神教徒は、自己の善存在をかけてと言う意味であるのに対し、日本人は、神という、超自然的な存在を保証人としてと言う意味でしかない。これは、契約や法に対する欧米人と日本人との基本的な差でもある。

 内面の規律は、超越者と対峙することによって戒律へと昇華する。神と自己との契約によって絶対化するのである。これが、律法主義である。この律法主義を土台にして、法治主義が成立する。即ち、法に従うのは、神との契約に基づくからである。

人と人との約束は、相手に絶対的な信を置くしかない。この様な信は、結局、同族意識を生み出す基となる。相手に信がおけないとなると国家権力のような何等かの権力機構に絶対的な信を置かざるを得ない。しかし、それは、民主主義の理念に反し、独裁主義や全体主義を生み出してしまう。

 神との契約が介在してはじめて、法による規制が成り立つのである。

 この超越的存在は、自然のような存在ではない。
 日本人は、神と自然とを区別できない。日本人は、無為自然と神的な存在とを混同としている。日本人的な神は、唯一神ではなく、ただ、自然を指しているか、超自然的現象を指している場合のどちらかである。いずれにしても一種の現象に過ぎない。そこには、統一的な世界は存在しない。

 日本人は、無為自然に放置すれば、一定の帰結、調和は実現する。つまり、なる事を前提として民主主義を考えている。
 話せば解るという思想である。それを民主主義の原理だと日本人は、信じ込んでいるが、それは、極めて日本人的な発想である。民主主義の原理は、当事者同士が話し合っても理解し得ないと言う前提に成り立っている。だからこそ、法なのである。そして、その法は、予め、絶対普遍的な存在との契約によってのみ保障されるのである。

 民主主義は、なるようになる体制ではない。民主主義は、ほっておけば自然になる体制ではない。国民の意志が一定の水準に、均衡する事を意味するのではない。民主主義が求める状態は、定常ではない。定常は停滞である。国民に求められるのは、受動ではない。国民一人一人の積極的な働きかけ、意志によって民主主義は維持される。
 民主主義に求められるのは、落ち着きではない。民主主義の基本的原理は、調和や安定ではない。民主主義の根本は、和ではない。結局、成り行きまかせでは、俗に言うところのエントロピーが増大して、活力を失ってしまう。
 民主主義の根本は、するである。なるではない。不均衡であるからこそ、民主主義は成り立つのである。均衡してしまえば、民主主義は存在意義を失う。民主主義で必要なのは、変動である。国民に求められるのは、能動である。国民一人一人の活動によって民主主義は、活性化する。
 民主主義か追求するのは、変化である。民主主義の基本的原理は、競争、闘争、葛藤である。絶え間なく、葛藤を引き起こすことで、活力を生み出していくのが民主主義の本源である。
 その意味で、民主主義というのは、農耕民族的な発想によって成り立っているのではなく。狩猟、遊牧民的な発想で成り立っている。
 それは、民主主義の背後に存在する対象を無為自然的なものとして捉えるのではなく。唯一絶対者、超越者として捉え、それに厳しく対峙して、自己をあからさまにし、磨いていくことによってのみ、確立される主体を前提として成り立つのである。

 この様に、自由というのは、決して受動的なものではない。能動的なものである。自由になるためには、自己は、常に、当事者である必要がある。民主主義の大前提は、国民一人一人が当事者であることである。
 自由にとって大切なのは、主体性の確立である。主体性は、絶対者、超越者と一対一に対峙することによって成立する。つまり、絶対普遍な存在、超越者との対決を通じてのみ、自己は、そして、翻って言えば民主主義は成立するのである。

 神は、沈黙するだから人間が主張するのである。

 また、民主主義は、人民の意志によって成り立っているというのも日本人的解釈である。
 大体、人民の意志ほど曖昧なものはない。
 人民の意志は、誰も代表することはできない。なぜならば、人民の意志とは、個人の意志の集合だからである。
 結局、人民の意志とは、人民の総和に等しくなり、平均化、標準化を意味する言葉に過ぎなくなる。国民一人一人の意志をどの様に制度的に取り込んでいくかが、民主主義の課題であり、国民の意志を平均化することが目的ではない。ここでも、話し合いによって国民の意志を統一化、同質化すること民主主義と取り違えている。それは、民主主義でなく、全体主義である。

 個人主義は、超越者を自己の延長線上に捉えた考え方である。つまり、超越者とは、自己を超越した存在である。

 超越者を前提にしないで、人民の総意のような得体の知れないものを前提としたら、民主主義は極めて流動的な体制になる。

 我々は、人民の意志なるものに幻想を抱いてはならない。人民の意志ほどあてにならないものはない。大衆は、常に、迎合的である。特に、日本人のように倫理的な核、宗教的な規律を持たない国民は、その時の体制に流されやすい。つまり、心に錨(いかり)がないのである。その為に、大衆民主主義(ポピュリズム)、長い物には巻かれろ式の発想がまかり通るのである。結局、人民の意志がナチズムや全体主義への道を開いたのである。
 我々は、常に、普遍的な存在と一対一に対峙、自らを厳しく戒め続けない限り、自己の信念を貫き通すことはできない。

 信仰は、生活である。民主主義は信仰である。つまり、民主主義は、国民一人一人の生活の基盤なのである。それ故に、民主主義を成り立たせているのは、国民一人一人の生活でもあるのである。




神と民主主義U
神と民主主義V
民主主義者には宗教的熱狂が必要である。
信仰のみが自由主義と民主主義を成就する
神と国家


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