2013年10月23日 11:07:32

神について思う

信仰心なき指導者は危うい


信仰心なき指導者は危険だ。
指導の形に絶対という事はない。絶対的王道はないという事である。

指導者はそれぞれ自分なりの指導の形を持っている。
指導の考え方には流行、廃りもある。
私が子供の頃は、指導者には威厳が求められた。
今は、親しみやすさが優先されて、威厳などと言うと敬遠されてしまう。

絶対的という管理スタイルも指導スタイルもない。

どんな管理スタイル、指導スタイルにも一長一短がある。
ただ、言えるのは、自分の管理スタイルや指導スタイルに自信がなくなり、弱きになったり、迷ったりすると部下は、動揺するという事である。
反面、自分の管理スタイルや指導スタイルを絶対だと思ったら危ないという事である。
これは、一見して矛盾しているし、事実、過信と弱きは常に裏腹の関係にあって指導や管理を複雑にしているのである。

だから、自分の指導スタイルが絶対だと過信した時重大な判断ミスを犯しやすい。
それを防ぐためには、己を絶対視しない。つまり、己を超越したところに絶対的な存在を見いだすしかない。
その己を超越した絶対的存在こそが神なのである。
だから信仰心なき指導者は危うい。

過信してはならない。
人間の予測や判断、百%的中する事はない。仮に一度も間違いがないとしてもそれは偶然、幸運にすぎない。人は、間違いを犯す。犯しやすい存在だと思っておいた方が間違いがない。
最初は上手くいっていたとしても、何時かは間違いを犯す。問題は間違う事ではない。間違いを間違いと受け止め悔い改められない事である。

管理や指導に絶対的なスタイルがないとしたら指導者や管理者はどうやって指導術や管理術を身につけているのかである。それは、経験や知識に基づいて体得する以外にない。そこに歴史を学ぶ動機がある。
歴史は、指導や管理の事例集のようなものである。指導術や管理術の宝庫である。

例えば、陣頭指揮である。陣頭に立って式をする事は、味方にとって圧倒的な効果がある。しかし、指揮官を危険にさらす事にもなる。つまり、ハイリスク・ハイリターンなのである。士気を鼓舞するには、圧倒的な効果があるが、指揮官が倒されれば、組織全体の崩壊を招く危険性がある。

組織をまとめるものからすれば良し悪しよりも収められるか、収められないかの方が問題である場合が多い。
自分は、人に従う時、指導者に対し面と向かって自説を主張し、反対する事はあっても、陰で批判した事はない。批判するぐらいならば、最初からその人に付き随わない。
心服できないのならば、戦うだけである。
一度、忠誠した場合は、軽々しくその人を陰て批判したりはしない。
そんな事をしたら自分の部下を収められなくなるし、自分も収まらなくなる。

その様な行為は天に唾するようなことである。
しかし、現代社会は、天そのものを侮っている。
天を怖れぬ者は、平然とこの世を滅ぼす。
天を怖れるからこそ自制する。
天を怖れぬ者は、自分も怖れなくなり、自分に負ける。

克己復礼。

政治的に自国を収められなくなった時に、自国民を煽って他国に敵愾心を持たせる事ほど危険な事はない。
それは、当該国に戦争を仕掛ける行為と変わらないからである。
自分も収まらなくなるし、国民も収まらなくなる。

そういう指導者は、平和を最初から求めてはいない。臆病者のする事である。
敵を作る事は内をまとめる事の常套手段ではあるが、同時に内が収まらなくなる動機を植え付けることでもある。

かくあるべきと言うべき論と言うのが障害になると私は思う。
よく何事もかくあるべきだという頑なな考え方で物事を決めてかかる人がいる。
特に、このべき論を指導者に当てはめると指導者というのは身動きがとれなくなる。
自分なりの基準を持つ事は悪くないが、それがかくあるべきだと絶対的な決めつけになると融通が利かなくなる。
個々の局面における判断は前提条件や状況によって変わるべきなのである。又、変われなければならない。問題は前提条件や状況であり、その確認もせずに一律にかくあるべきだと決めてかかる事は判断ミスを誘う上、判断ミスの原因が特定できず、自分の態度を頑なにしがちである。




陣頭に立つべきか任せるべきか悩ましいところですね。
自分が陣頭に立ってしまうと現場の責任者の立場がなくなるし、かといって引っ込んで丸投げしたら士気、モラルが低下する。
実際の処、悩みますね。
悩むけれど私は、陣頭に立つのは、危急存亡の時か、勝負に出た時、現場の責任者に問題が生じた時と決めています。
基本的には、何もなければ、現場は現場の責任者に任せる事にしています。
現場の責任者に任せて顔を立てながら、必要に応じて顔を出す必要もあると考えます。
ですから、自分は、なるべく忙しい時は避けて少し手がすいた頃に顔を出す程度に留めています。
でも自分のやり方やスタイルが絶対というわけではありませんし。
不味いのは、自分のスタイルがないことだと思っています。
実際の判断は、その時、その場の状況に合わせて判断します。

親父は、任せるか任せないかをハッキリさせて、任せるなら細かい事に、嘴を入れない方がいいと言ってましたね。

親父に、よく言われましたよ。顔を出さなければ顔を出してくれと言われ、顔を出せば出したらで鬱陶しがられるものだと。
どちらにしても求められもし、批判もされる。
だから、迷ったら、自分の信念を押し通すしかないと・・・。

親父は、酒場で部下に気がついたら親父は、俺がいたら呑みにくからうと気がつかれないようにそっと席を立っていましたよ。

高級料理屋と安酒場に差があるのも、ただ差を付けるという事だけではないと思います。
一つは、上司と部下が一緒くたにいると気を遣うという事、もう一つは、指導、管理職層をガードするという意味もあるという事ですね。
その辺の事を理解している者がいなくなりましたね。何かというと、単純に、差別だと言うんですね。

差を付けることが悪いと言うけれど、差がなければ、収まらないこともあります。
皆、何でもかんでも同じにしろなんて思っていません。
ただ納得のいかないところで差を付けられているのが厭なだけです。
問題は、差を付けられることではなくて、理不尽理由、不当な理由で差を付けられたり、筋の通らないことで差を付けられることだと思います。
何でもかんでも同じに扱えというのも、視点を変えると差を付ける事になると思いますね。

管理スタイルや指導スタイルに絶対というのはありませんから。
その人その人のスタイルがある。
絶対に駄目という以外の事は、相手のスタイルを尊重するようきつく仕込まれました。
あの人にはあの人のやり方がある。嘴を入れるなと。
父達が言いたかったのは、指揮官を弱きにさせたり、迷わすのが一番いけないという事ですね。
僕は、基本的に良し悪しではなく、収まるか収まらないかを基準にしています。
どんなに正論でも、収まらない事がありますし、暴論に見えても納められる事もありますから。
ぼくも、なるべくニュートラルにしています。

ニュートラルにしていると自分がないように見られることもありますが、本当は、自分がないとニュートラルな態度はとれないんですよね。
中立的な態度で自分がなければ何も決められなくなりますから。

他の指導者のやり方を、ああだこうだと批判するゆとりは、殆どのトップにはないですね。
自分が意志決定に何らかの形で、関わっていれば別ですけれど。
でもその時は、陰で批判はせず堂々と自分の意見を述べます。

指導者というのは、お互いに自分のやっている事で手一杯ですから、いいと思えば取り入ればいいし、駄目だと思えば真似しなければいい。
要するに指導者は決定権をもっていますから、それは、自分で決める立場にあるという事で、他人を批判する以前に自分で決めなければなりませんから。
他人の決めた事をああだこうだと言うことは両刃なんですね。
ナンバーツーの時迄は勝手なことを言えますが、トップに立ったら何にも言えなくなる。
何かを言う以前に決定しなければななりませんから。

それに指導者というのは、皆、それ程、確証を持ってやっているわけではないと思います。
だから、迷ったらお仕舞いだという気持ちでやってますから。
お互い大変だね。頑張ってと言うくらいしか声が掛けられませんね。

僕は、その会社その会社の流儀があり、トップの思想があると思うんです。
トップはトップです、その会社その会社のやり方がありますから、それを言ったらお仕舞いというか。
ですからトップ同志というのは、暗黙に相手を立てて批判的な事は避けるものだと僕は躾けられてきました。
一々反論するのも儘ならず。自分の考えを言えば相手を批判する事にもなりますし、辛いところです。

その辺は、自分の仲間もふくめ、皆、常識的に話し合っていたんですがね。
今は、本当に何にも解っていないみたいです。
かつて尊敬していた先輩も常識がないと部下を叱っていました。
その先輩は随分前になくなってしまいましたが、今にして思えば、叱っていた理由がよくわかります。

権威というものを認めなくなりつつありますから。
だから逆に権威が求められる。

今の人間は、全て、反権威反権力に染まっているんですよ。
そのために権威が働かなくなり、そこら中に矛盾が噴出している。

僕らの責任ですけれど。自業自得ですね。

だから、油断すると今は補佐役に潰されてしまう。



自分は、ワンマン社長やオーナーの独断の弊害を厭と言うほど見てますからね。
本当に会社の事を思っている者を生かせなくなる。
そうなったら、最大の障害はオーナーだし、社長ですよ。
自分がいなければ会社が回らないとか、良くならないなんて言っている社長や経営者なんて僕から見たら最低ですよ。
社長というのは、ある意味でつまらないものですよ。
なぜなら、自分を必要としなくなる体制を一生懸命作っているようなものですからね。

僕は、他人からあなたがいなければなんて言われてもちっとも嬉しくないんです。
大体自分がいなければと行っている社長は、辞められない理由を抱えている人が大多数だと思いますよ。

経営者の仕事は、我慢我慢ですよ。部下が自覚して働き出すのをじっと我慢して、待ち続ける以外にないんですね。
そして、部下が働き出した時は、自分が引退すべき時なんですよね。

オーナーやワンマン社長の悪いところは、結局、誰も止められなくなるという事ですよ。
人間は完璧ではないですよ。
人間なんて大して変わりがない。
博打見たって解ります。結局、勝率なんて似たり寄ったり。同じですよ。
たまたま最初上手くいくかいかないか程度ですね。
最終帳尻はよくてトントンですね。
上手くいったらいったで大きな失敗をするリスクが高くなるだけですよ。
上手くいかないと今度は自分の非を認めようとしなくなる。
ハッキリ言って人格まで変わってしまいますからね。
だから、僕は自らのために計らずと心に決めたのです。
トップというのは、誰も罰したりしない代わりに許してもくれないのです。
だから、部下が間違いを犯したら早めに制止し、過ちを犯したら許すそれに徹しようと覚悟しました。

トップが表に出て派手に振る舞えばそれだけリスクが高くなる。
所詮、トップなんて黒子に徹すべき何ですよ。

ただ最大の弊害は、部下がその気になってくれないと何もできない。
最悪どん底まで落ちていく。
そういう事ですよ。

僕は、部下と共に地獄の底まで一緒に行こうと決めたのです。
船が沈む時は、船長が最後まで逃げずに見届ける。その覚悟だけですね。

僕は逃げません。
逃げなければいいんですよ。
腹を括っていれば何とかなります。
いつも自問自答するんです。
何を怖れているんだと・・・。
私は、神のみを怖れます。

最近、やりにくいのは、一切の権威とか序列を認めようとしない点ですね。
確かに、権威や序列は形骸化すれば弊害ばかりになる。
しかし、形骸化してしまうのは自分達ですからね。
組織や社会には秩序が必要です。

戦後の日本は、その権威や秩序を全否定されてしまった。
これも戦争に負けたからですかね。
戦後の日本人には、負け犬根性が染みついてしまった気がする。

権威を単純に否定してしまうと組織の働きや役割、分担の意味が見落とされる危険性がありますね。

負け犬根性から抜けだし、自分に負けないためには、自己を越えたところに存在する何ものかを信じる必要がある。
神を信じぬ者は、自らを神とする。
天を怖れぬものは、自己の過ちを恥じる事がない。
恥を知らぬ者は誇りもない。
故に、その様な者に率いられる事は、常に、危うい。

品がない。






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