2013年10月23日 11:07:32

神について思う

科学とは何か。心理学について




事象は主体的認識によって形成され、意識の中で成立している。
科学は意識が作り出した事象である。
故に、科学は仮想現実の中で成立している事を忘れてはならない。

私は物理学を学んだ。
物理学や数学と言った科学を学ぶにつれて最近の科学に行き詰まりを感じるようになった。

科学は、人の意識が生み出したことである。存在は意識の外にある。

不完全な意識が生み出した科学は万能とはなり得ない。

科学を万能と捉えた時から科学の限界が見えてきたのである。
科学は、人が生み出して事である。
科学の限界をもたらしているのは人間である。

科学を万能とする者達は、
宗教は、迷信であり、神話は虚構だとしている。
しかし、科学も、又、人が生み出した仮想現実の一つである。
仮想現実である科学も、又、神話を生み出そうとしている。
科学を絶対視するのは愚かである。
それも又幻想の一つである。

講釈師、見てきたような嘘をつきと言われるが、科学者も講釈師のようなところがある。
科学的に立証できたからと言ってそれが絶対だとは言い切れない。
大体、科学は、絶対的認識という事を前提としていない。
ビッグバンも、進化論も仮説の域を出ないのである。
仮想現実の中にある。
つまり、一種の神話のような事である。

宗教と科学とを対立的に捉える人達がいるが、必ずしも、宗教と科学は対立的な事ではない。
科学者の多くは、神話や聖書の出来事から出発しているのである。
ニュートンだってデカルトだってノアの洪水を科学的に立証しようとしたくらいである。
自然界の神秘に対する探究心は、神に対する畏敬の念があって成り立っている。
科学を切り拓いた多くの科学者は、神話的出来事を立証しようとして科学への道を歩み出したのである。
科学者を無神論者と決めつけるのは短絡的である。
そして、この神との関係が科学の発達や基礎に重要な働きをしているのである。
それは精神世界と物質世界とを結びつけようとする意図において重要なのである。

神話や聖書に記述されている事は、精神世界の出来事である。
神話や聖書は仮想現実の中にある。
物理的世界で証明されないとしても不思議はない。と言うよりも当然である。
なぜならば、精神世界と物質的世界は次元を異にしているからである。
精神世界の出来事である神話や聖書で重要なのは、象徴と構造である。

科学の発達と聖書の解釈というのは切っても切れない程、深く関係している。
キリスト教の聖書は、近代科学に重大な影響を及ぼしている。

映画やドラマ、テレビの中の出来事を現実とを混同したら正常な判断はできなくなる。
しかし、映画やドラマ、テレビの出来事が現実に反映されてもおかしくない。
それは映画やドラマ、テレビは、何らかの精神世界を反映しており、示唆や教訓に満ちているからである。

故に、神話や聖書を単なる迷信や空想と片付けるのは間違いである。
神話や聖書は精神的事実であり。
重要なのは、神話や聖書が何を伝えようとしているかである。
何を象徴しているかである。

科学では、視点が大事なのである。
視点は立場で決まる。立場とは、自分が依って立つところである。
人は、立場に依って意識、認識に差が生じる。
多くの科学者が地動説によって殺されかけたが、視点を変えれば、地動説も天動説も成り立ってしまうのである。
逆に、視点を決めなければ何も定まらずに混沌とした状態に戻ってしまうのである。
これが相対主義の正体てある。相対主義というのは、絶対的視点を否定する事によって成り立っている。
視点を定める事によって物と物との関係が定まり、森羅万象の現象を認識する事ができる。それが科学の視点、立場なのである。
この様な視点、立場によって意識も認識も変わるというのは経済も同じである。
むしろ、観念的所産である経済の方が視点、立場によって意識、認識に差が出るのは当然の事である。
そうなると立ち位置が重要となる。

科学は、諸々の技術をもたらした。
それは、自然界に隠されていた力を上手く人間が引き出すことによって実現した。
科学技術によって人は、神の力を手に入れた。
しかし、人間は神ではない。神にはなり得ない。
不完全が人間が神の力を手に入れれば、自己を破滅させることにもなりかねない。
その点を忘れ、神を怖れなくなった時、神の力は、人を滅ぼす力となるであろう。
神の力を手に入れても人は神にはなれないのである。
愚かな者が、絶大な力を手に入れることは、己が破滅を意味するのである。

心理学も又、人の意識が作り出した事象であり、存在は、意識の外にある。
存在と意識の関係が心理学の対象となる事象を生み出しているのである。

自分が万能だと思えば、万能者のように振る舞うのである。
しかし、実際に万能者であるか否かを立証できる事象は、意識の外にある。
故に、意識だけでは、自分が万能であるか否は立証できないのである。

この様な事実が、心理学の背景にはある。
心理学そのものが意識によって生み出された事象だからである。

例えば、境界性パーソナル障害と言われる事象である。

境界性パーソナル障害と言われる症状を呈している者は、常に、自分の内面に矛盾を抱えている。

その矛盾が昂じると自分を抑えることができなくなり、自制心を失ってパニック状態に陥る。
その原因を当人は解っていない。
しかもその様な自己のことを周囲に隠そうとする。
自分の心の周囲に壁を作って限られた人間だけをその中に囲い込もうとする。
そして、囲い込もうとする相手の自分以外の人間関係を切断し、自分との関係だけ限定させようとする。
この様なことは現実には不可能である。
現実に不可能であるから周囲といろいろに軋轢を生むことになる。
それが又ストレスになる。
ストレスになると自傷行為に走る。
こうして悪循環に填まっていく。
それが境界性パーソナル障害である。

愛されれば愛を失うのを怖れて憎み。
喜びをえれば時がたつのを悲しみ。
幸せになれば不幸を思って臆病になる。
栄華は衰退の兆しであり。
誠は嘘に思え。
人を信じれば裏切られる事を嘆く。
矛盾とは自分の心が生み出す事。

矛盾は人の意識が生み出す事である。
矛盾の根源は存在にある。
存在は、意識の外にある。

その矛盾が人格を分裂させる。
一種の多重人格である。
しかし、普段は、その異常性が表面になかなか表れない。
現れたとしても特定の人間に偏っている場合が多い。
その為に、近しい者ほど引き込まれ、引き回されてしまう。
当人はいい子に振る舞うから尚始末が悪いのである。
一生懸命、尽くせぱ尽くすほど悪役にされてしまう危険性がある。

又自傷行為や自殺未遂を繰り返す。自己否定である。

解消し得ない矛盾を抱えている者は、絶えず分裂した人格の間で葛藤し続ける事になる。
それは、自己の内面に相当の緊張感を持たせる事になる。
この様な状況が長期間続くと自己の同一性が保てなくなり、人格障害を引き起こすことになる。

この様な人は、なかなか他人を認め受け入れる事かできない。
自分がないからである。
自分がないから自分を認め受け入れる事も難しいのである。

何らかの喪失経験が原因しているとも言われる。
特に家庭関係、母親との関係が原因とされる場合が多い。

なぜ、家族、特に、母親に問題ありと考えられるのか。
それは、家族、中でも母親が自己の存在の源にあるとされるからである。
その根源にある家族から、忌避、或いは捨てられたと思い込むような体験をした人の中には、自己の存在気を見失い自己喪失をする人か出てくる。この様な自己喪失をした人は、自己の存在意義を見いだせず自己否定や同一性の喪失を繰り返す。
自己否定は、自傷や自殺未遂などを引き起こす。
又、捨てられるのでは思うとパニックに陥り自制心を失う。または、愛情の対象となる人を絶え間なく試し、行為をエスカレートさせていく。極端な嫉妬心を抱く。極端な独占欲に囚われる等の症状を呈するのである。

この様に、根源的原因は、何らかの形で、家族や母親に見捨てられたのではないかという不安が根底にあると思われる。
しかし、この際、余り原因に囚われる必要はない。
なぜなら、自分を見失っている相手に自分を見失った原因を尋ねること自体、意味のないことだからである。
何よりも大切なのは自分を取り戻すことなのである。
なぜなら、自分の存在意義や存在理由が見いだせないからである。
何がそうさせているのかを正しく見極める事が出発点だからである。
それは矛盾であり、問題なのは、その矛盾の正体である。

例えば、愛情である。相手を深く愛すれば愛するほど相手に捨てられるのを怖れて相手を傷つけたり、試したりする。
ものすごく親愛感を示したかと思うと冷淡な仕打ちをする。極端なのである。しかも、その時々で別人のような振る舞いを見せる。
しかし、人格的に分離しているというわけではない。

また、仕事と育児を両立させようとして苦しんでいる人の場合、仕事もしたいし、子供の面倒も見なければならないという板挟みで苦しむこととなる。妻であり、母であり、そして女でもある。それに仕事が加わるから一人では支えられなくなる。
それも、見ようによっては矛盾であり、その矛盾がストレスとなる。

子供に対して申し訳ないと思う反面、仕事仲間に迷惑はかけられないと言う責任感がある。
子供や同僚に対する後ろめたさが内面の葛藤を引き起こす。
それを解消するためには、自分が仕事をしなければなせないストーリーを組み立て、それを現実の事としてしまう。
自分が働かなければならないという動機が必要なのである。それによって自己の行為を正当化しようとする。

しかし、本来必要なのは、子供との対話である。率直な話し合いである。
それに反した行動をとれば、結局、問題の抜本的な解決には至らない。

矛盾を解消できるのは、意識の外にある真実である。
そして、その真実の背後には、神が存在するのである。

鬱は、自己喪失が、根本的原因である。
自己喪失は自己否定に至る。
自己を取り戻すことが重要なのである。

自己喪失を解消できるのも、意識の外にある真実である。
自己を取り戻させる力も神にある。

トラウマを重視する人が多い。しかし、トラウマを明らかにしてどうするのか。
トラウマを明らかにする事である程度、自分を取り戻すという事が重要なのである。
しかし、トラウマそのものが重要なのではない。重要なのは意識である。

トラウマに気がついたとしてもそれを克服しようという意志が働かなければ、トラウマから解消されることはない。
こういう場合で原因と言うより、意識の働きの方が鍵を握っている。
問題は、意識は仮想現実を作り出しているという点であり。意識は、自分が作り出した仮想現実の中で働いているという事である。

薬によって症状を緩和することは可能である。しかし、根本的治癒には至らない。
なぜならば、根本にあるのは、自己と存在との整合性だからである。自己と存在との一体感がなければ、自己の存在は常に危ういのである。

精神が異常になっている者にとっては仮想的現実が現実なのである。
我々には見えていない事が、彼等には見えている事があるのである。

神というと、超人とか超能力的な存在を思い浮かべるが、神とは存在そのものである。
神は、能力とか知識の外に存在する。
神の本質は、その存在性にあるのである。

神は、普遍的な時に生き。
自己は、今に生きている。





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