2013年10月23日 11:07:32

神について思う

あるという事




前提は、明確な存在におく。これが近代的論理の基本的ルールです。
明確なる存在とは、自明なる事。
この自明なる事と言うのは、突き詰めると厄介なのですが、
僕は、それ自体の存在それ自体で証明する事、つまり、直感的認識によって存在を確認し、相互の存在了解がなされた事としています。存在了解は合意である。
存在了解とはあるですね。
デカルトの考える故に我あるは、存在証明でしかないと私は言っているのです。
考えるという部分は、食べるでも、走るでも、痛いと知覚するでも置き換える事が可能です。
問題はあるという事です。
そこに、私は、自己存在の前提をおくのです。
先ず自己は主体である。次に、間接的な認識対象である。この二点ですね。
自己は純粋に観念的存在で、肉体のような物質的部分は含みません。
これによって定義をします。
この様な自明でない命題による定義は、論理の飛躍をもたらします。

私の理論の柱の一つに、
自己は主体であり、尚、自己は間接的認識対象であるというのがあります。
これが僕の理論の根幹なんですね。
これも僕が学生時代に気がついたのですが、
言わんとしていることは、この世の中で直接見ることのできない顔は自分の顔である。
つまり、自分は一番自分のことを知っているつまりでも、実は、自分のことを一番知らない。
自分を知りたければ、自分の姿を外部に映して、言い換えれば、絶えず投げ出して外の反応から自分を知る以外にない。
自分を映す鏡が歪んでいれば、自分の姿も歪んで見える。
だから、常に、外に働きかけて外の歪みを正すと同時に、自分の姿勢も正して歪みのない己を磨き上げる。
これが実践哲学の本旨です。
自分は先ず歪みのない鏡になるように心掛けよ、
自分の周囲にいる人達を歪みのない鏡とするように働きかけよ。
その時、真実の自分の姿が見えてくる。
その真実の姿の向こうに神がおられる。

自分が正しいと信じている事を実践し、相手や社会の反応を見ながら修正していく事、それが実践哲学です。

ただ、僕は、相手の是々非々は言いません。
ただ鏡に徹するだけです。
なぜなら、善悪はその人の自身の問題だからです。
その先は、ただ祈りです。
明鏡止水。それが私の目指している心境です。

水に映った月は乱れても月そのものは変わらない。
水に映った月が乱れたと言って心乱すのは、己の未熟さ。
そう日々反省しております。

又、人の心は海のようだとも思うのです。
人の心は、日々姿を変える。
今自分に好意を抱いていても次の瞬間に憎しみに変わることもある。
今、憎んでいてもそれが愛情に変わることもある。
自分も含めて、常に、その瞬間、瞬間の姿を見定めて
日々、心を新たにしていないと慢心や偏見に囚われてしまう。
海は、今も穏やかでも、時には津波のようになって襲いかかってくる時もあります。
海を恨むのではなく。
己の心の慢心を戒めるようにしております。

良し悪しは、認識の問題であって存在の問題ではありません。
良し、悪しの判断基準は対象側にあるのではなく、認識者側にあります。
良くとるか、悪くとるかは、認識者側の問題です。
つまり、ある一つの事象があり、それを肯定的とれば肯定的受容であり、否定的に受容とればそれは否定的受容だと思います。
例えば背が高い人がいて、これも相対的な問題ですけれど、それに劣等感を持てば否定的受容であり、バレーやバスケットの選手になるのに有利だ、目立つからいいと思えば肯定的受容です。
自分は駄目な人間だと思えば、駄目な人間になるし、
優秀だと思えば、優秀になれる。
短所も見ようによつては長所となり、長所も見ようによっては短所となる。
良くするも悪くするも要は自分次第なんです。
これはとても大切な事です。認識だからこそ変えられるので、存在だとしたら変えられなくなります。
考え方一つで良くも悪くもなる。だから肯定的考え方に変える事で前向きな生き方ができる。
だから、あるがままの自分を受け入れ。その上で、自分に対する認識を変えていく事だと思います。

心の有り様一つで人は変われるのである。
先ず自分を愛する事です。

感じ方一つで劣等感にも優越感にもなるし、
劣等感や優越感も考えようで良くも悪くもなる。
失敗も成功も考え方で決まる。
ピンチはチャンス、チャンスはピンチ。
要は心の持ちよう一つ。
重要なのは事実ですね。
事実を事実として受け入れなければ正しい評価なんてできはしない。
失敗は失敗、負けは負け、事故は事故、損失は損失、欠点は欠点。
失敗や負けを正しく認識した上でそれをどう前向きに考えられるようにするかですよ。

そうすれば、悪いところがあっても言いじゃないかと言うぐらいの心のゆとりが生じる。
実際、悪い事を悪い事として放置しなければ良いだけです。
それより問題なのは事実を事実として受け入れられるくらいの心のゆとり、鷹揚さが失われる事です。
そうなると何にも成長しなくなる。
失敗から学ぶ事ができなくなりますからね。



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