2013年10月2日

神について思う

浮気は一種の病気である



浮気は、一種の病気です。
失う者の大きさや代償を考えたら、浮気というのは、一種の病気です。
失うものだけでなく、浮気に払う労力や精神的な圧力を考えても浮気というのは割が合わない。

それでも尚浮気をするとしたら、価値観の問題になる。
単純に性欲の問題だと考えるのは短絡的すぎる。
欲望以外の何ものかの衝動が働かないかぎり、浮気をするだけの動機は見つからない。
しかも、浮気は、一番愛する者を意味もなく、必要もなく傷つけてしまうのである。
そうなると浮気は一種の病気だと考えざるを得ない。

要するに、女にもてたいという願望なのである。
女にもてる事に意義を見いだしているからなのである。
これは、動物的な固定観念である。
オスの意識である。
一物がでかいとか、精力が強いとか、女にもてるとか、そういう事ばかりに価値観を見いだしているからである。
または、本当に人を愛する事ができないかである。

いずれにしても、浮気というのは、一種の病気だと私は思う。

浮気をする奴は、浮気をすることに対する熱意や情熱は半端ではない。
とにかくまめである。
そして、自分だけは、浮気はばれないという妙な、根拠のない自信がある。
大概、浮気は、男の甲斐性だと思いこんでいる。

そして、浮気を正当化する妙な理屈を持っている。
しかし、浮気をすることで自分のパートナーを傷つけているという事は否定しようのない事実である事を忘れている。

つまり、浮気は、理性とか自制心の対極にある行為である。

たばこをなぜ吸うのか。
たばこは、体に悪いし、金もかかる。汚いし、臭い。火事の原因にもなる。後始末も大変である。
一度すえば中毒にもなる。
なのになぜ、たばこを吸うようになるのか。

たばこは、自分で吸おうと思わないかぎり、吸わないものである。
つまり、何らかの自分の意志が働いているのである。
最初に、たばこを吸おうと思う動機は何か。
そこにこそ喫煙の意味が隠されている。

浮気も、たばこも、誘惑に勝てないからと言うが、そもそも誘惑とは何か。
そんなもの本当にあるのか。
誘惑なんて、自分が生み出した、幻想にすぎない。
なぜなら誘惑の根源にあるのは自分だからである。
誘惑の本質は、我執、我欲である。

要するに、誘惑に勝てないというのは、いいわけであって、実際は、価値観を変えられないからではないのか。
頭を切り換えられないからではないのか。

人間の行動には、意志と決断が先立ってなければならない。
特に、男の性行動は、たとえ衝動的であろうと、何らかの意志と決断がなければ起こりえない。
だとすると、価値観の問題か、自制心の問題である。
どちらにしても、意志と決断の問題である。
自制心が欠如していたら行動を制御できなくなる。

人の過ちの根本には、人の弱さが隠されている。
それが罪の本質なのである。罪は、人間の弱さに起因する。
罪の原因は人の弱さにある。

罪の本質は、意志にある。
意志が弱いなるが故に罪を犯すか。
罪悪感が欠如しているから罪を犯す。
意志薄弱であろうと、価値観であろうと、
罪の根本は自己である。
自分を改めなければ、罪は償えない。

それ故に、、罪を贖うためには、人は、自分の過ちを認め、悔い改める必要がある。
ところが、人は自分の過ちを認める事がなかなかできない。
人は弱いのである。

だから、自分を変えるためには、神を必要とするのである。

人の弱さは、人を残忍にする。
なぜなら、自制心を失うからである。
人の罪は、残酷な結果を招く。

赦しがないからである。
人が、他人に寛容になるためには、神の許しを受け入れなければならない。











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