2013年10月7日

神について思う

神と指導者




企業の経営者であれ、国家の政治的指導者であれ、宗教的指導者であれ、軍事的指導者であれ、
指導者という者は、自分が正しいという確信がなければ決断はできない。
そして、成功は、その正しさを裏付け実証する。
それ故に、事業に成功した多くの指導者は、自分の行いが正しいという絶対的な確信を持ちやすい。
しかし、それが失敗の本なのであり、厄介なことなのである。
正しいと確信しているが故に、自分の限界を受け入れることができず、周囲の人間の意見を聞く耳をもてなくなる。
そして、多くの指導者は、自分がかつて正しいと信じ、成功した事で失敗し、失脚していくのである。

指導者の役割の一番は決断である。
自分が正しいと信じているからこそ決断できる。
決断して実行した後は、結果が全てなのである。
何が正しくて、何が間違っているかは、結果から推し量るしかない。
とりあえず、一定の結果が出たらそれを良しとする以外にない。
しかし、何事にも長所、欠点はある。
絶対に正しいという事はない。
要は、何をもって是とし、何をもって非とするかは、継続しているかいないかに過ぎない。
つまり、終わっていないという事である。
果てしないことである。

こうなると結果が全てを決めてしまう。
結局、結果を追い求めることとなる。
しかし、結果は、結果、初心や当初の目的とは違う。
本来は、初心、原点と当初の目的から結果を評価すべきなのであるはずなのが、兎角、結果、オーライに終わってしまう。
結果が良ければ全て良しになりがちで、最初の志は忘れられていくものである。
しかし、物事の本質は、志にこそある。

指導者の役割で一番大事な事が決断とすれば、過ちをする確率は、指導者が一番高いことになる。
なぜなら過ちを犯す危険性は、決断の数に比例するからである。
ならば、一番悔い改めなければならない機会が多いのは指導者である。
それだけ指導者は責任が重いのである。

決断の根本は志である。
故に、指導者の本旨は、志しにこそあるのである。
たとえ、敗れたとしても志を貫けたら、それはそれで是とすべきである。
重要なのは、志である。
ところが、決断の評価は結果に求められる。
いくら志が高くても結果が悪ければなかなか評価はされない。それが現実である。
そのために、多くの指導者は志を曲げて現実に迎合しがちである。

政治家は、選挙に当選することが本旨ではないはずである。
何を為そうとしているのかが、本旨である。
ところがいつの間にか選挙に当選することのみを追い求め、当初の志を忘れてしまう。
選挙に当選しなければただの人に過ぎないからである。
選挙に当選してはじめて政治家として認知される。
だから、選挙に当選することが、いつの間にか、政治家の目的に変化してしまいがちである。
そこに不正につけ込まれる隙が生じるのである。
選挙に当選することを目的とした時、政治家は堕落する。

指導者には立場がある。
指導者の過ちは、集団全体の過ちと見なされかねない。
指導者だからこそ、悔い改めることができない事もあるのである。
また、指導者が悔い改めたくとも周囲の者が許してはくれなかったりもする。
そして、その原因の多くが利権なのである。

利権が絡んでいなくとも、正しいと信じ、また、成功した事だからこそ改めることができない。
優れた指導者程、成功者程悔い改めるのが苦手なのである。
だからこそ指導者は神を必要とするのである。

無神論者が大国の権力者になる事は人類にとって危険な事である。
しかし、彼は悪魔かと言えば違う。
彼は人間である。
人間だからこそ危険なのである。
神を信じぬ者は貪欲である。
おのれの欲望に歯止めがきかない。
怖れを知らないのである。

人間とは、最初から不完全な認識の上に成り立っているのである。
正しいとしてもそれは相対的であり、対極に間違いがあることを前提としているのである。
結局、対立を軸とせざるを得ない。
しかし、対立を軸としているかぎり、妥協はあり得なくなる。
一方を正しいとするならば、対極の間違いを受け入れざるを得ない。
正しいと確信すればする程、間違いが際立っていくのである。
絶対的な善悪がない限り、どんな状況でも正しいと言い切れる事はないのである。
人は、過ちを犯すものである。
その人の過ちを犯さざるをえない事を前提としたら、寛容にならざるを得ない。
そして、人の過ちを許さざるを得ないのである。
しかし、組織の頂点に立つ指導者を許せる者は、組織の内部にはいない。
指導者を許せるのは、超越した存在である。

神を信じぬ指導者は、自らを神と崇める。

民主主義者は、どんな優秀な指導者も限界があり、権力は腐敗するという事を原則とするのである。
そして、民主主義は、権力者は一定の任期で必ず交代し、人を信じないで仕組みや制度、法を信じるのである。
法に則ることで人の自由を担保するのである。
この点こそが欧米と他の文化圏との最大の違いである。

親は、辛く苦しいことを可愛い子供に見せず、経験させずに済ませたいと思う。
しかし、現実は、それ程単純ではない。
厭なことや辛い経験こそが、人を育てることもある。
だから、古人は、獅子は千尋の谷に我が子を突き落とすと言い伝えてきたのである。
何でも笑ってしませれば、それにこしたことはない。
笑顔の向こうには笑えない現実がある。
例えば、貧困や不景気、戦争や災害、病気といった個人の力ではどうしようもない現実である。
それを克服しないかぎり、本物の笑顔は生まれない。
現実を直視せずに笑顔を作ってみても、笑って誤魔化しいるのにすぎない。
大切なのは、七転八倒しながら、どうしようもない現実と葛藤することである。
その葛藤の果てにある笑顔こそ本物の笑顔なのである。
絶望を突き抜けた果てにこそ真の希望はある。
だから、喜怒哀楽それぞれに働きがある。
相手に微笑みを求める時、それを、忘れてはならない。
笑顔に真実があるならば、涙にもまた真実があるのである。

今の日本人は基本を忘れている。
しかし、大人になっても自分達が基本ができていないことを頑固に認めようとしない。
だから、今日、いつまでたっても基本的な事で、過ちや事故が絶えないのである。
その好例が、JR北海道や東京電力の事例である。
基本は基本である。
基本というのはできて当たり前なこと。つまり、単純で簡単なことである。
単純で簡単で誰にでもできる。そして、誰にでもできなければならないこと。
基本は理解するのではなく。身につけることである。
その基本を学校でも家庭でも教えてこなかった。
教えてこなかったと言うより、教えられなかったのである。
なぜなら、基本は、修行で身につけることだからである。
それは厳しい躾に基づく。
基本は、褒めてばかりでは身につかないのである。
指導者には厳しさが求められる。
しかし、その厳しさは指導者自身にも求められる。

指導者は生きる基本を自らの生き様で示さなければならない。

指導者こそ基本が大切なのである。
組織を動かすことに基本を取得していなければ、
過ちは組織全体に及ぼす。
しかし、基本ができていないことを指導者程認めようとはしない。
基本を改められないのである。
過ちを認めるのは、過去の自分を清算しなければならないから死ぬほど辛いのである。
だからこそ、民主主義国では、一定の任期で指導者を交代させるのである。

指導者も老い衰える。
判断力も鈍くなる。
状況や環境も時と伴に変化する。
しかし、価値判断の基は、経験にある。
どうしても指導者は過去の経験に囚われてしまう。

野生の動物の世界はハッキリしている。
力が衰えれば、力のあるものに取って代わられる。
それが野生の掟である。
人間の世界でもかつては、権力闘争によって指導者の交代は促されていた。
しかし、それでは血生臭い争いが絶えない。
だから、平和に指導者が交代できる仕組みを考案したのだ。
それが民主主義である。

民主主義国は、指導者の限界を前提としている。
民主主義国では、人を絶対とは認めないのである。
だからこそ、民主主義は神を必要とするのである。

民主主義では、指導者の世襲も、終身制も、原則的に、認めないのである。

腐敗とは何か。
腐敗に対する考え方が欧米と欧米以外の国とは、根本が違う。
欧米では、腐敗とは、公と私の混同にある。
故に、欧米では公と私の区分が厳格であるのに対して、その他の国では、曖昧である場合が多い。
公とは、集団の利益である。私とは、個人の利益である。
つまり、公私混同とは、集団の利益と私の利益の区分を曖昧にしたり、また、集団の利益より、私の利益を優先させ、
或いは、集団の利益を私の利益の犠牲にする事を意味する。それが腐敗を意味するのである。
民主主義国の基礎となる集団は国民である。故に、国民の利益を指導者個人の利益に優先することが、民主主義国では求められる。
公と私を混同することが腐敗なのである。
そのために、西洋では、公と私の区別を明確にすることが絶えず求められる。
ところが、東洋文化では、西洋文明に比較して公と私の区分がずっと不分明である。
だから、権力の腐敗に対する認識の仕方が違う。
それが民主主義の性格をも左右するのである。
いくら体裁を整えても、民主主義の本質を国民が理解しないと民主主義は実現しないのである。
東洋では、民主主義と言っても世襲や終身に変質しやすい体質を持っている。

指導者こそ、自分の過ちを認め悔い改めなければならない。
そうしなければ、その災いは、組織全体に及ぶのである。
しかし、指導者は、自分の過ちを認めがたい。
だからこそ、指導者は、神を必要とするのである。
信仰なき指導者程危うい存在はない。

神の前では、どんな権力者であろうと、聖人であろうと、絶世の美人であろうと一己の人間でしかない。
それが凄いことであり、また、恐ろしいことなのである。
だから、神の前では、どんなに虚勢を張ったところで、着飾ったところで意味はない。

なぜに、指導者たる者、神を必要とするのか。
それは、自らの野望を遂げんが為にではない。
過ちを犯しても尚指導者たらんとするからだ。
全ての指導者は神の前に額づき、おのれの罪の赦しを請うのである。
そして、最後は笑って死のう。

死は一定。

後、何年生きられるというのか。
五年か、十年か、二十年か。
明日と言わず、今、たった今、死ぬかもしれない。
いずれにせよ。
死は一定。
ならば、この一瞬に全てを賭けよう。

死す場所と時を、間違えるなと、日本人は、躾けられて育ったのだ。









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