2013年8月21日

神について思う

猫に小判.豚に真珠



人間は、万物の霊長だと言いますが、本当でしょうか。

猫に小判、豚に真珠と言いますが、猫は小判の為に、仲間を傷つけたり、騙したりはしません。豚は、真珠の為に、仲間を殺したり、裏切ったりしません。彼等にとって小判や真珠は生きていく為に絶対に必要なものではないのです。ならば、小判や真珠の本当の価値を知っているのは、人間なのでしょうか。それとも、猫や豚なのでしょうか。

苦節は伴にできても栄辱は伴にできないといいます。
人は、理想や目的を追い求めている時は、貧しくとも心を一つにできるが、夢が成就して、その成果を分け合おうとした時、取り分を巡って相争う。
物質的に豊かになっても心は貧しくなる。その点、動物は、名利のためだけで争うことはしません。
人間は、本当に万物の霊長と言えるのでしょうか。
神は、人間のためだけに存在するわけではありません。

理性もなく、自制心もなく、欲望の赴くままに行動する者を、人は、獣(けだもの)と罵りますが、では、獣に自制心がないというのでしょうか。
獣だって必要もなく、他の動物を襲ったりはしません。遊びで狩りをするのは人間ぐらいなものです。
神の定めは人間だけにあるわけではありません。
動物達は、神の定めを護って生きてきたのです。

極限状態でも野生の動物は、自分の身を守る為の最低限の自制心は持っています。
獣と言いますが、獣は、無闇に人間を襲ったりはしません。
人間が襲われる時は、それなりの理由があるのです。
怖れているのは人間です。怖れられているのも人間の方です。獣だって怖いのです。

野生の鷹を餌付けした時、食べ過ぎると鷹は断食すると言います。野生の鷹は、自分のコンディションを護る為に節食するのです。

動物は、裸です。しかし、自分の性欲を抑える事を知っています。
年がら年中「さかり」がついたようにセックスをするのは人間だけです。
動物は、「さかり」のつく季節は限られています。ところが人間に飼い慣らされてペットになると性欲を抑制できなくなると言います。
しかも、動物達は、求愛行動をして相手の意志を確認して相手を決めます。
裸でいるのに、相手かまわず見境なく性行為をするわけではありません。
自制心がないのは、獣でしょうか、人間でしょうか。

よく自分を解放するという事を性の解放のような事と取り違えている者がいますが、僕は、性の解放は、余程、注意しなければならないと考えます。
性というのは、最高のコミュニケーションの手段であり、又、命に誕生にまつわる行為でもあり、愛情表現でもあるからです。
性行為の根本にあるのは、愛だからです。
そして、神の本質も愛です。愛のない行為は、神に対する挑戦です。無慈悲な行為です。
その上に、相手のあることだという事です。相手の感情を抜きには考えられない。人を性の捌け口の道具としか見ない行為は、愛のない行為です。
無慈悲な行為は、一つ間違えば、大切な人を深く傷つけ、一生消えることのない傷を残してしまう危険性があるからです。
その証左は、凶悪犯罪の多くが、男女の関係が絡んだ事件だという事です。
性行為には、相手を思いやる心と慎みがなければなりません。
それは、根底に愛情問題があるからです。
神の本質は愛なのです。

現代人の不幸は、愛を教えられる前に快楽を教えられてしまうことです。
愛は心の問題であり、快楽は、体の問題です。性欲も食欲も自制することを覚えずに貪欲さだけを身につけてしまう。それでは自制心は養えません。
僕は、昔、インディアンの子育てについて聴いたことがあります。インディアンは、厳格な子育てをする部族や自由な子育てをする部族があるが、大事なのは、全て一貫していることだと聴きました。生きる為に必要なこと、そのための自制心を教えなければ、自己の解放など意味はありません。
結局、愛する人々を傷つけるだけです。
昔の映画は、同じ部屋に男女が二人きりで一夜を過ごしても何も起こらないことを前提としていました。今の物語は、何も起こらないはずがない事を前提としています。それだけ人間の自制心が信じられなくなったのだと思います。

最近、カウンセリングのセミナーに通うことになりました。
カウンセリングの先生の講義を聴くと単に心理学について語られているとは、自分には思えないのです。

カウンセリングの基本は、相手の話を聴いてその人自身の力で解決するのを導いていく事です。
自分の話をするうちに、自分の過ちや問題に気づき、自助努力によって問題を解決させる。それが、カウンセリングの基本です。ですから、カウンセラーから積極的に価値観を変えたり、問題点を指摘する事は、極力しないように指導されます。
しかし、セミナーを受けていて気がつくのは、それは、あくまでも技術的な問題であり、本質的な部分では、結局、カウンセラーの人間性や価値観に頼らざるをえない。

また、カウンセリングの限界がある。
カウンセリングだけでは、世の中を変える事もできないし、戦争や不況もなくせない。病気も癒やせない。カウンセリングだけでなく、経済学だって、政治学だって、経営学だって単独では、世の中を変えられない。だから、世の中を変えようと志したら、他の分野の人間と一緒に分担をするしかないのである。

価値観とか、政治的問題とか、能力とか、経済、土台にある人間関係の問題、つまり、その人だけでは解決できない問題については、触れられないという事です。

その問題に触れようとすれば、必然的にカウンセリング、その大本の心理学は、哲学的で思想的なものにならざるを得ない。
そうでなければ、カウンセラー個人の個性や人間性に頼らざるを得なくなる。
結局、フロイトとユングの対立と決別のような部分を心理学は、持たざるを得なくなります。
そして、ユングの元型やフロイトの性的な部分が誇張されてしまう事にもなる。
心理学が心理学として成立するためには、根源的存在、即ち、神について、何らかの回答をだす必要がある。
さもないと、心理学も人間の表層の問題にしか触れられない。
心理学の対象は人間なのである。
故に、人間という根源的存在のあり方に立ち返らないとその本質を見失ってしまいます。その結果、学問としての統一性が保てなくなってしまうのです。
その結果、一党一派に分裂していく事になります。

結局、カウンセリングも人間の内面に立ち入らなければならなくなる。
そして、神に出会う事になるのです。
カウンセリングのセミナーの先生は、意識しているかいないかは別にして、心理学を語りながらその背後に働く神の愛について語られている気がするのです。
心理学を語りながらその背後に働く神の愛について語られている気がするのです。
そして、カウンセラーが言うカウンセリングというのは、神と直接接するための手段であり、又、神のことを直接語らずに、神と直接接するための手段についてのみ語られていることに私は意義がある気がするのです。

神を信じ、神と人とを、直接、結びつけた時、私は、生きることの真実を理解することができるのだと思います。

私は、動物たちの持つ掟というにある種の不思議さを感じます。
人間は、自然界の掟を簡単に本能のようなもので片付けようとするが、それは人間の思い上がりのような気がする。
自然界の掟には、もっと深遠な何ものかの意志が働いているように思えてならないのである。

自然界の掟は、人間の社会の掟よりもずっと厳格なものが多い。野生の掟は、生き死にに直結している場合が多いからである。
生物は、小さな蟻のような昆虫や一見優しそうに見える小鳥たちだって子孫を残すために命がけに戦う。反面に巣立ちの時には、子供達に厳しく自立することを求める。
自然に任せても動物たちは、規律があるのである。

だからこそ、人間性の核心的部分を解放したとしても自制心を失うことはないと私は確信します。それが野生だからです。
よく馬鹿になれと言いますが、それは馬鹿なことをしろという事ではないのだと思います。
純真無垢になり、自分を心の底から信じなさいと言いたいのだと思います。
自堕落になったり、自分を見失うのは、人間の甘えです。
野生では、自分を見失うことは、そく死に繋がるのです。
日常や常識に囚われていたら、危機に際して適切な行動がとれません。
本能の赴くままに行動する事も時として必要です。
天敵に遭遇した時に、死んだふりをするのも一瞬の機転です。
自分を襲おうとしている敵がいる時に死んだふりをするなんて馬鹿なことです。
しかし、それも生きるための知恵の一つです。
馬鹿になれとはそういう事を言うのだと思います。
馬鹿になれというと、奇声を上げたり、裸になったり、危険なことをしたり、非日常的なこと、無法なことをする事と思い違いをしている者がいますが、ただ、頭を空っぽにして素の自分をさらけ出せば良いので、無理して無茶なことをする必要はないのです。
例え、頭の中を空っぽにして気ままな行動をしたとしても、それで、破壊的になったり、無秩序になるという事はない。私はそう思います。

結局、本然の自分というものに立ち返るこ以外にないのだとだと思います。
本音が大切なんだと・・・。
あるがままの自分をさらけ出して、真実の自分を取り戻した時、その先に神が見えてくるのだと思うのです。
自分を偽ったり、飾ったり、欺いているうちは、神の本当の姿は見えてきません。
弱くて、臆病で、醜い自分をもさらけ出し、赤裸々に自分の本当の姿を現せたら、きっと自分の真実も露わになる。その結果、神は救いに現れるのだと思います。
それこそ、真実の光明であり、希望です。



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