2013年月23日 11:07:32

神について思う

金儲けについて


お金という物は、ありがたい物です。
お金があれば、市場で好きな物が買えます。
むろん、自分の手持ち資金の範囲内ですけれど・・・。
お金があれば、自分の欲望の幾ばくかは、充足できます。
それだけに、お金には魔力があります。
下手をすると自分の人格や道徳までねじ曲げてしまう程の力があります。
金儲けのために、平気で人を騙したり、裏切ったりする者も現れる。
そして、そういう者が贅沢な暮らしを享受している。
社会的地位も得る。現実にお金にはその様な力が隠されている。
悪用すれば、人の心を弄び、世の中を思うが儘に動かす力がある。
お金は人の欲望を際限なく引き出してしまう。
そして、人を破滅させてしまう力がある。

だからお金は、汚い物、卑しい物ととらえている人が大勢いてもおかしくありません。
しかし、金が汚い、卑しいとするのは人の心がそうさせるのです。
金、自体が汚い、賤しい物ではありません。
金の溺れる人の心が汚くて卑しいのです。

世の中には、金儲けは悪いことだと思い込んでいる人がいる。
しかし、金儲けが良いとか、悪いとか議論したところで無意味である。
大体、お金儲けをするだけなら、口実はいらない。
今のような貨幣経済下では、お金がなければ生きていけないのですから、いずれにしても、最低限の所得は確保しなければ生活ができないのです。
だから、金儲けに理屈を付ける必要もない。
金儲けは、生きるための手段に過ぎないのです。
金を儲ける事自体に意義も価値もないのである。
問題なのは、金儲けに必要以上に意義を持たせ、金儲けを生きる目的にしてしまう人間です。
そうなると、人生の目的全てが、金儲けのためにある事になる。
この様な人間は、金儲けのために生きているようなものです。
こうなると金の亡者である。俗に言う守銭奴です。

大切なのは、金儲けをする目的です。動機である。
肝心な事は、金儲け以前にある。
金に取り憑かれて、金の亡者にならないためには、何の目的で金儲けをするのかは理解しておく必要がある。

考えてみると金は何のためにあるのか。
お金の効用は、使ってはじめて発揮される。
お金というのはそれ自体に価値があるわけではありません。
現在の金には、交換価値しかないのです。
物やサービスと交換する事でお金は価値を持つのです。
ただ、溜め込むばかりでは、お金は力を発揮しません。
使わなければ、お金は効力を発揮できないのです。
だとしたら、何に対して、どの程度、お金を使うのか。
それが問題なのです。

つまり、お金の使い道が、大切なのです。
お金の使い道がハッキリすれば、金儲けの仕方も制約される。
お金儲けというのは、金を調達する手段です。
現代は、お金を調達する事ばかり考えて使い道を疎かにしています。
だから、金儲けの目的か解らなくなっているのです。

お金の使い方にこそ、その人の人間性や思想、道徳観がでるのです。
そして、お金の使い道と儲け方は表裏をなしている。
だからこそ、お金の儲け方が問題になる。

金儲けのためならば何をしても良いというわけではない。
なぜならば、金を儲ける事は、何に、いかに、金を使うかの問題によるからです。
悪いことをして金儲けをしても、使い道に困るからです。
悪銭身につかずという諺もあるくらいです。
あぶく銭は、結局、馬鹿な事に散財してしまい、かえって借金だけが残ったりもするものです。
大金を手にすると人はえてして気が大きくなり、自分を見失うものです。
そして、人としての道を踏み外してしまう。
金は人を狂わせる。
金儲けのために、人を騙したり、暴力をふるったり、盗んだり、殺し合ったりもする。
真に犯罪の陰には金があるのです。

金儲けの目的を理解しておかなければ、金を儲けに限度がなくなる。
どの様にして、どれくらい金を儲けるかが算段できないのは、金を儲けた後で、金の使い方を考えるからです。
目的も解らないままに、金儲けをするから、金儲けに際限がなくなるのです。
また、金のありがたみも解らなくなる。
金のありがたみが解らないと金にだらしなくもなります。
お金を敬して遠ざける事にもなりますし、どんぶり勘定にもなる。

また、金の使い方を間違うとかえって不幸になります。
幸せになるためにお金を儲けているはずなのに、金儲けをするために不幸になったりする。
大金をつかんだ瞬間、空しくなったりもする。
それは、なぜ、金儲けをしているのかが解らないからである。

なぜ何のために為に金を儲けているのかが解らないと、金に対する執着心も強くなり、自分を抑制できなるものです。

ところが世間では、金儲けの仕方ばかりを問題にして、金の使い方については、何も問題にしていない。
いくら金を儲けても、それで賭博や遊興に使い果たして家庭を壊したり、又、意味もなく溜め込んでしまうのならば、金儲けしても甲斐がない。
ただ、金を残すことばかりに専念をして、金を使い惜しみしていたら豊かにはなれないし、世の中に金が回らなくなる。金は使ってこそ効用を発揮するのである。
かといって無駄使い、浪費をしていたら、お金は身につかない。

最近、何でも安ければいいと言う風潮が蔓延しています。
安いという事は必ずしもいいことではありません。
安いというのは結果です。
しかし、安くするという事には、いろいろな理由があります。
理由や動機を抜きにして安いという事だけで、是非善悪を論じても始まりません。
安くするために、人を辞めさせたり、不当に低い賃金で雇ったり、労働条件を劣悪にしたり、下請け会社をいじめたりするのでは本末転倒です。
適正な料金設定をしておきませんと後々厭な問題を引き起こします。

安いと適正とは違います。
では何が適正化というとやっぱり金の使われ方にあるのです。
お金が正しい使われ方をすれば、お金は社会の潤滑油にもエネルギーにもなります。
しかし、お金の使われ方が悪ければ、景気を悪化させ、最悪の場合、社会や国家まで破壊してしまいます。
お金が正しい使われ方をするためには、経済の仕組みが大切です。

お金が正しい使われ方をするためには、お金の分配の仕組みが鍵を握っています。

お金は、主に、働きの対価として支払われます。
働きの対価には報酬があります。
お金は報酬としても使われます。
報酬は費用でもあります。
どんなきれい事を言っても、報酬は、お金という無機質な物で評価されるのです。
人の働きをお金で評価すると言うのですから、厳しくなって当然です。
そして、報酬が、何に、または、誰に、どの程度支払われたかが重要な意味を持つのです。
それによってお金の流れる方向や量が定まるからです。

お金の流れる方向や量を定めるのは、金を儲けることの意義や働きです。
何のために、誰のために働くのか。
だからこそ、どの様にして金を儲けるのか、そして、何に使うのかが大切なのであって。
単に金を儲けることはいいか悪いかと論じることは無意味なのです。
世の為、人の為に働き、貢献することで豊かになる事は、良いことであっても、悪いことではありません。
それを良いとか、悪いというのは、僻みであり、焼き餅、嫉妬に過ぎません。

ただ問題になるのは、必ずしも正直者が正しく評価されるというのではなく、馬鹿を見ることがある事です。
真面目に汗水を垂らして働いている者が報われずに、親の残した財産によって何の苦労もなく、遊んで暮らせる者がいたりすることが問題なのです。
また、人を欺くような仕事をしているのに、不当に高額な報酬を受けている者がいることも問題なのです。
それを許していたら、道徳が失われ、また勤労意欲も失われます。真面目に働く意欲が失われます。そうしたら、社会の秩序も保てなくなる。それが困るのです。

人は、金儲けのために働いているのではありません。
肝心なのは、金儲けをした先に何があるかです。
誰のために、何のために金を儲けるかです。
つまり、金の使い道が問題なのです。
それが解らず金儲けのために働いていたら、金の奴隷になるのは必然です。
自分の欲望を満たすだけの目的で金儲けをしていたら、身を持ち崩すだけです。
かえって有害であり。空しいことです。

私は、金を儲けること自体は悪いことだとは思いません。
真っ当な働きをして儲けているのならば、文句の付けようがない。
報酬に値する働きをしている自信があれば堂々と金を儲ければいいのです。
金儲けより、むしろ、金の使い方の方が問題だと私は思います。
人は金を儲けることばかりを問題として、金の使い方を問題とすることが余りありません。
でも、深刻な問題を引き起こすのは、むしろ金の使い方です。
不正なことをして儲けているとか、不当に高額な報酬を得ているとか、人を傷つけて儲けているというのではなく。
生産的仕事を真面目に働いて、チャンと社会に貢献しているというのならば、何も、金を儲けることを恥じることはないのです。
正々堂々と応分の報酬を受ければ良い。
それによって豊かになる事は悪い事ではない。
ですから、儲ける時には遠慮なく儲けておくことです。
ただ、人を騙したり、必要以上に金を儲けることは戒めるべきです。

お金の話は厭なものです。
つい笑顔も消えてしまう。
楽しい旅行の話をしていてもお金の話になると途端に、皆の顔が曇る。
でも、今の世の中、お金の話から逃げ出せないのです。
だとしたら、早く済ませておいた方が良い。
そして、曖昧にしない方がいいと、私は、思います。
お金の問題は、キチンと清算しておいた方がいいに決まっているのです。
お金に纏わる話をしていると、兎角、感情的になって自分を見失いがちです。
お金のために、大切な友達や愛する家族すら失いかねない。
遺産相続を巡って骨肉で醜い争いをしたりもする。
だからこそ、お金に関することは、最初にルールを決めておく必要があるのです。
厭な問題になるから、はじめから直視すべきなのです。

マネージメントは、マネージメントなんです。
一人で何もかもできるうちはいいです。でも、一人でできることには限りがあります。そこに第三者が関わってきた時、金銭の問題は深刻な課題になります。だから、ビジネスはビジネスとして割り切る必要が出てくるのです。
自分の仕事に対する報酬はどれくらいか、それを数値に表されるのは余り愉快なことではありません。過大になるか、過小になるか、いずれにしても何らかの禍根を残すことになりやすいものです。

お金は魔物です。
金の力に取り憑かれると、お金の魔力に支配されてしまいます。
しかし、お金は所詮道具なのです。
お金に取り憑かれるのは、自分の意識であり、人間の欲望なのです。
お金は、石油や電気、ガスといったエネルギーと同じように扱い方しだいでは絶大な力を発揮すます。
要は人間次第なのです。
お金のために、大切な人間関係を壊すこともたびたびあります。最初はお金の問題ではないといいながら、結局、金の切れ目が縁の切れ目だなんていう事もよくある話です。宝くじに当たったら急に親戚が増えたなんて事もよく聴きます。
だから親しい人とは金銭的な貸し借りはするなとも言います。

あのマザーテレサですら金銭の問題では苦しんだのです。

経営の基盤をしっかりしておかないと思わないところで足をすくわれます。

聖なる物と賤しむ物、結局、忌避するという点では同じ効果をもたらすことがあります。その点を気をつける必要があると思います。
厭なことだからこそ、そして、厭だけど避けて通れないことだからこそ、はじめにルールを決めてハッキリさせておくことが大切なのです。
お金の問題ではないからこそ、金問題を片付けておく必要があるのです。お金の問題を片付けておかないと、結局、どうでもいいお金の問題で躓くのです。
そして、些細であればある程、精神的に受けるダメージは大きいのです。時には、人格を買えてしまう程の打撃を受けるものです。
金で片付けられることは金で片付けるのです。

人間の欲というのは計り知れない部分があるのです。
自分ですら、予測がつかない、抑えきれない。それが欲です。だからこそ、欲を制する必要があるのです。特に、物欲(金銭欲)と性欲は抑えきれない。
長中期的に見て経済的に成り立たないことは、何時かたち行かなくなります。その時は悲しい結末しかありません。だから、しっかりと金銭を管理できるパートナーを確保することが大切なのです。
欧米人は、人を信じません。人を信じないで仕組みや手続きに重きを置く。それが民主主義です。
大切なのは、しっかりとしたマネージメントの仕組みを作ることです。

お金は、人が作り出した物です。
それを忘れてはならなりません。
お金は、人が創り出した道具に過ぎないのです。
お金に支配されるなどという事は馬鹿げたことです。
お金に支配されるのではなく。
お金を支配するのである。

神は、金儲けが悪いと言っているのではありません。
金に目がくらんで、人としてのわきまえを失うことを怖れているのです。
人は、豊かになると神に対する怖れを失い。
神の恵みや人々の助けに対する感謝の念を失いがちになります。
そして、傲慢になって大きな過ちを犯す。
金は、人の心を虜にする。
金によって自分の心が支配することを怖れるべきなのである。
金に心を支配されないためには、常に神に感謝し、恩ある人々に報謝する心懸けを失わないことです。

お金は、ありがたい物です。
お金は大切な物です。
お金を粗末にしてはいません。
しかし、お金に心を奪われるのは本末転倒です。
大切なのは、お金の使い方です。
お金の儲け方にあるわけではありません。
本来は、お金はいくらあっても困らない物です。
でも、必要以上にお金を持っているといろいろな災難を招きやすい物です。
お金の為に兄弟姉妹が骨肉の争いをしたり、お金が原因で友達を失ったりまします。
また、犯罪の陰にはお金がある物です。
だからこそ、お金に対してはきれいでありたいと思うのです。
お金は大切です、しかし、お金に対して汚くなり、周囲の人に対する思いやりを欠いたら人と人との関係を壊すだけです。お金こそ、分かち合い、助け合うための道具なのです。
意味のなくお金を浪費したり、博打に溺れたり、自分の欲望や快楽を満たすためだけにお金を使うのでは、身の破滅を招くだけです。
お金が悪いわけではありません。その人の生き方が悪いのです。
お金の使い方は、その人の生き方を表すものなのです。
大切なのは、自分の生き方です。
お金の為に自分の生き様を汚したら本末転倒です。
だからこそ、お金に対しては、常に潔(いさぎよ)く、きれいでいたいのです。

お金のことで人に蔑(さげす)まれるような生き方はしたくないのです。
金の亡者にもなりたくはありませんが、同時に、自分が努力しない為に貧しいのも恥ずかしいことなのです。
お金の囚われることも、お金にだらしない事も、お金をキチンと管理できないという点において、本質は同じなのです。

現代人にとって、この世は「金」が全てである。
所詮この世は金次第。金があれば何でもできる。
だからこそ、金に対してきれいである必要がある。
金は道具に過ぎない。
金は使う物であって、金に使われてはならない。
主人は、自分でなければならないである。
さもなければ金の奴隷になる。

仕事には、仕事本来の目的がある。
医者ならば、病気を治す事であり、政治家ならば、国家、国民のために働く。銀行家ならば、投資をして産業を興し、国を発展させる。音楽家は、音楽で人々を楽しませ、或いは、自分の考えを訴える。建築家は、家を建てて人々に住まいを用意する。教育者は人々を教え育てる。
仕事は労働である。働く事によって対価としてのお金を受け取り、それで生計を立てる。お金は道具である。
ところが、仕事が仕事本来の目的や働きを失ったら、金儲けしか残らなくなる。
医者は金を儲けるために、病気を治し、政治は金儲けのために、国や国民を利用し、銀行家は、金儲けのために企業を利用する事になる。
それでは本末が転倒している。本末が転倒すれば物事は成り立たなくなる。本来の目的や働きが失われるからである。

仕事の目的の根本は、人間の存在にある。そして、人間の存在の根源は神にある。
故に経済の根源は神にある。経済の根底を成り立たせているのは、信仰である。




TOP         Contents         NEXT


このホームページはリンク・フリーです
Since 2013.8.30
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.


Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano