2013年8月19日

神について思う

神と罰


神は、戦う事を是とも否ともしていない。
神は沈黙する。
ただ神は、お示しになる。
戦いの悲惨さを、無意味さを、愚かさを、残酷さを・・・。
ただお示しになるだけである。

戦いは、神の意志によるものではない。
人の未熟さ、愚かさがさせる行為である。

なぜならば、憎しみや恨みに基づく争いには赦しがないからである。
赦されない行為は神の本意ではない。
神の本意は愛であり、赦しだからである。

神の本質は、生かす事であり、殺す事ではない。
この世の存在は全て神が創りたもうた存在なのである。

憎しみや恨みは神の本性ではない。
神の本性は愛である。
憎しみや恨みによる争いには、際限がない。
赦しがないからである。
果てしない憎しみと恨みが伝えられていくだけである。

憎しみを煽って問題を解決しようとするのは愚かな事である。
憎しみによって問題は解決しない。
かえって事態を拗(こじ)らせるだけである。

戦争は、人の罪である。
神のなせる業ではない。

しかし、神は戦うなとは言わない。
ただ、憎しみや恨みによる戦いがいかに悲惨で残酷な結果を招くかをお示しになるだけである。

神は、戦いを是とも否ともしていない。
戦うか、戦わざるを決めるのは自分である。
故に、神の名や自分以外の名の下に戦うのは自分を欺く行為である。
戦うならば、自らの名の下に戦わなければならない。
許されるか、許されないかは、自らの心に聴け。

憎しみ恨んで戦うというのならば、戦うががいい。
そのかわり、神に赦しを求めるな。
そして、戦って滅びるがいい。
憎しみ恨んで争うのは、人の罪である。

世を欺き、人を騙す事は、神を欺き、自分を騙す事である。
それでは神の許しを得るわけにはいかない。
なぜなら、自分で自分が許せなくなるからである。
自分で自分が許せなければ、神に赦しを請うても意味がない。

先ず、自分が自分の罪を認め改めなければ、神に赦しを請うわけにはいかない。

自分の罪は自分の罪なのである。
自分で償わなければならない。
神は、自らの罪を認め悔い改めようとする者を罰したりはしない。

自らを罰しているのは、自分なのである。
自分が自分の罪を認める事ができず、苦しみ悶え、悔い改められずにいる。
それこそが罰である。
自分の意にそぐわない状況は誰にでもある。
それを受け入れ、前向きに生きるからこそ、人は幸せになれるのである。

何も為さなければ、人間は罪を犯さないで済むのか。
ただ、他人を批判し、世間の性にしていれば、自分の罪から逃れられる事ができるのか。
それは違う。
例え、過ちや失敗を犯したとしても、生きようとして世の中に立ち向かっていかないのならば、それも罪である。
人は、主体的に生きなければならないのである。
主体的に生きなければ、自分の行いに責任を持つ事もできず。また、自分を信じる事すらできないのである。
為すべき事をしなかった言い訳ばかりをする人生は救いようがない。
何も為さなければ、とるべき責任が明らかにならないからである。
大切なのは、決断である。
自らが決断し、行動した時、何が善で何が悪かが明らかになるのである。

何を善とし、何を悪とするかは自分で決める事である。
それは、素心に戻り、自分に正直になった時にしか明らかにならない。
自分に嘘偽りをつき、欺き騙しているかぎり心の平穏は得られない。

だから、懺悔せよ。
懺悔せよ。
真正直に自分の思いを語り、自分をさらけ出した時に、真実の自分を知る事ができる。
そして、自分の罪を知る事ができる。
その時はじめて悔い改める事ができるのである。

抑圧から自分を解放し、真実の自分と向き合った時、神と出会う事が許される。

誰を憎み、誰を恨む。
所詮、己(おのれ)を憎み、己を恨んでいるのに過ぎない。
それは、神を憎み、神を恨んでいる事でもある。
神を憎み、神を恨んでいるかぎり、神の許しは得られない。
その心は地獄である。

何に怯え、何を怖れる。
それは自分の影に怯え、影を怖れているのに過ぎない。

憎悪や怨恨が創り出した己(おのれ)の影を神に見立て、神に怯え、神を怖れているのに過ぎない。
その様な者には、神は悪魔にしか見えない。
神と悪魔との見境がつかない者は、神とて救いようがない。
自分を救うのは、自分の純心である。

神の本性は愛である。
親が子を慈しむように、神は、この様に生きる者全てを慈しんでおられる。
神の願いは、生きとし生きる者全てが幸せになる事である。
しかし、幸せになるかならないかは、生きる者の心の有り様にあるのである。
幸せになりたければ、神の愛を受け入れ、悔い改めるしかないのである。

なぜ、正しきが虐げられ、迫害を受けるのか。
それは、人の心が病んでいるからである。
正しいと信じた行いが必ず報われるとは限らない。
正しいと信じて行って行為が成就するとは限らない。
しかし、大切なのは結果ではない。
志である。何を信じたかである。
どの様な、迫害も、弾圧も、信仰を、信念を揺るがす事はできない。
悔い改める者は自分なのである。

ただひたすら、神を信じ、自分を信じる以外に心の安寧は得られない。

汝の敵を愛せよ。
人を愛せよ。
迫害する者を愛せよ。
虐げる者を愛せよ。
自分を愛せよ。
神を愛せよ。
神の本性は、愛なのである。

その上で、戦わざるを得ないというのならば、戦うがいい。
ただその時は、自らの名で戦え。
神の名や他人の名を借りてはならない。

自分の罪は自分の罪。
自分の罪だからこそ、悔い改める事ができるのである。

神を信じ、自分を信じ、その上で、他人を信じよ。
然もなければ、何を信じろというのか。
自分が正しい行いをしても、他人が信じられないと言い訳をする者がいる。
他人が信じられなければ、自分を信じられないというのか。
自分を信じられなければ、神が信じられないというのか。
他人を信じられない事は、自分を信じられない言い訳にはならない。
自分が信じられない事は、神を信じられない理由にはならない。
自分が許せなくても、神は許していてくれる。
それが信じられるかである。
神が信じられなければ、生きている間中、苦しみ悶えなければならない。
それが罪であり、罰である。





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