2013年2月13日

神について思う

信仰と経済


 


 国民国家というのは、宗教団体の一種だと考えられないこともない。民主主義というのは、自由や人権に対する信仰に基づいている。民主主義を信仰に基づいた体制としてとらえないと民主主義の本質が見えてこない。この点は、社会主義も共産主義も同じである。
 民主主義を単に形式だけ導入しても機能しない理由は、民主主義の魂を忘れているからである。民主主義を実現するためには、自由や人権に対する熱情が不可欠なのである。

 そして、国民国家は宗教団体と同質な部分を多くもっている。
 好例は、税である。
 税と喜捨、布施、献金は、反対給付をもたないということでは、同一的性格を持っているといえる。

 ただ、宗教団体と国民国家の違いは、国民国家というのは、あくまでも世俗的機関だという事である。
 それに対して、宗教団体というのは、世俗的部分を超越したところに聖なる部分がある。そして、聖なる部分の権威によって宗教団体は成り立っている。
 宗教団体にとって聖なる部分は、本尊と経典である。
 国民国家と宗教団体は違うとしながら、国民国家が、ある種の宗教団体と私が言うのは、確かに、建前上は、国民国家は世俗的機関だという事になっている。しかし、それは見かけ上の問題であり、実際は、国民国家も、世俗的部分だけでなく、聖なる部分がなければ、成り立たないという事である。
 国民国家は、世俗的な部分だけではなく、必ず聖なる部分を前提として成り立っている。聖なる部分がなければ、国民国家は建国の趣旨、大義を失うからである。
 国民国家にとって神聖にして犯させる部分は、国家の象徴と建国の理念として表される。その経典、教義は憲法にある。そして、建国の歴史は神話となる。また、国民国家を支えているのは、儀式と典礼なのである。この点を正しく理解しておかないと国民国家の本質は理解できない。
 象徴と建国の理念の二つをもたない国民国家は、やがては、全体主義や独裁主義、あるいは、無政府主義に変質してしまう。
 これらの点を正しく理解していないと民主主義は実現できないのである。

 民主主義の腐敗や堕落は、宗教団体が腐敗堕落するのと同じ原因によるのである。つまり、民主主義の腐敗堕落を防ぐためには、宗教団体の腐敗堕落の原因と過程を理解することが必要なのである。

 民主主義国家で最も怖れなければならないのは、世俗的権威を超える権威を失うことである。

 神を否定する者は、自らを神とする。

 共産主義国では、建国者は、神格化され、ミイラにされ、廟に祭られているのである。

 人は、自分で自分を赦すことはできない。
 人間は限りある存在なのである。
 自分を赦す存在、自己を超越した存在を受け入れないかぎり、人は、自らを赦す術を失う。
 自分を赦す術のない者は、自制できない。
 自分を赦せなければ、自分を絶対するしかないのである。
 自己を超越した存在は、自己の能力を超えた存在であり、自分の力では、その是非を判断することができない。
 ただ、信じ、受け入れるしかないのである。それが信仰である。
 信仰には勇気がいるのである。
 神とは、信じる者にとって絶対的存在なのである。
 神に対する怖れ、畏敬心を失った者は、化け物になる。
 神に対する怖れ、畏敬心を失った国家も化け物になる。
 況や、神に対する怖れ、畏敬心をなくした宗教団体は、妖怪変化の集まりである。

 世俗的権威を超える存在を否定した時、世俗的権威は、絶対的権力に変質する。それが独裁主義であり、全体主義である。
 また、物欲以外に生きる目的を満たす存在がなくなるのである。
 このような世界では、欲望や快楽が愛にとって変わってしまう。生きる目的として欲望や快楽でしかなくなってしまうからである。

 特に、一神教であるキリスト教やユダヤ教、イスラム教を下地としていない文化圏の国は、このことをよくよく理解しないとたちまち腐敗堕落し、快楽主義や金権主義、あるいは、全体主義、独裁主義、無政府主義への道を開くことになる。

 民主主義とは自由と人権に対する信仰がなければ成り立たない。

 問題なのは、神なき信仰だという事である。
 それは、信仰の自由という命題があるからである。
 しかし、信仰の自由は、信仰があってこそ成り立っている事を忘れてはならない。信仰の自由と言っても信仰そのものを否定しているわけではない。

 宗教には、聖なる部分と俗なる部分がある。その二つの部分によって、宗教団体の組織、体制には、二つの形がある。一つは、聖と俗とが一体となった体制である。もう一つは、聖と俗とが別々の体制である。
 具体的に言うと聖職者と信徒の組織が一体である体制と聖職者の組織と信徒の組織が別れいる体制の二つである。
 一般に、宗教というのは、世俗的社会を超越したところに、聖なる空間があることを前提としている。そして、世俗を超越する存在、聖なる存在に依って世俗を統制支配しようとする。
 ただ、忘れてはならないのは、聖と俗とは、不利不可分の関係にあるという事は、いかなる宗教においても大前提だという事である。
 なぜならば、どのような宗教団体も人間界という世界を土台に成り立っていて、人間を否定したら宗教そのものが成り立たなくなるからである。

 いかなる宗教も世俗を切り離しては成り立たない。しかし、宗教の根幹である聖なる部分は、超俗的であらねばならない。そこに宗教独特のジレンマがある。
 そして、そのジレンマは、国民国家にも宿命的にあるのである。しかも、国民国家は、自分たちを信仰集団だと自覚していない。それ故に、より深刻な形で問題化することがある。

 その最たるものが、政治や経済を卑しいものとして否定することである。しかし、宗教ほど政治や経済に深く関わっているものはないのである。
 政治や経済と信仰とをいかに両立させるか、それこそが国民国家を健全に保つための秘訣なのである。

 新興宗教にある種のいかがわしさを感じるのは、一方において、現世利益を否定し、金を卑しめながら、他方によって、壮麗な建築物を建て、また、金に汚く見えるからである。
 それに輪をかけるのが、聖職者達の腐敗堕落である。

 このことは、国民国家にも同様である。

 信仰は、政治、経済の効率を著しく高める。その結果、宗教団体の多くは、金持ちになるのである。豊かになるのである。
 使い道のない金は、結局、聖職者の腐敗堕落を招きやすい。
 多くの宗教団体が、もっとも、超俗的であらねばならない、聖なる存在が腐敗堕落し、権威を失墜し、組織が土台から崩壊させてしまうのである。

 このような信仰の腐敗堕落を避けるためには、世俗の問題は、世俗の問題としてとらえ、聖と俗とを分けて考える必要があるのである。それは、歴史や伝統のある規制の宗教団体が採ってきた戦略である。そのために、聖職者の組織と信徒の組織が時間の経過とともに分離するのである。

 第一に、政治や経済をいやしてものとして位置づけることをやめる事である。
 宗教というのは、政治や経済の効率を著しく高める。
 宗教が、政治的、経済的な問題を真正面から取り上げれば、政治や経済の健全性を保つことが可能となるのである。
 第二に、政治や経済をタブーとしないことである。宗教団体は、政治や経済を忌み事ととする傾向がある。世俗を汚れた世界として、その汚れて世界からの共済を特に、精神世界に求めがちになる傾向がある。そのために、世俗世界にある欲望や快楽を忌み嫌い、穢れた行為として精神世界から排除しようとする。しかし、排除しようとした結果、逆に、世俗世界の最も汚い部分に囚われてしまうのである。
 信仰が人々の救済を目的としているのならば、人間の持つ暗部から逃れることはできない。欲望や快楽を直視し、自制することに依ってのみ信仰の純潔は保たれるのである。極端な快楽主義は身を滅ぼすが、極端な禁欲主義は現実逃避を招くのである。
 神は、この世にありて、この世の衆生を救うからこそ信仰の対象となり得るのである。
 第三に、政治や経済の透明性を高めることである。つまり、政治や経済の問題を秘密扱いしないことである。宗教団体における経理が不透明であるから、宗教団体そのものがいかがわしく、秘密めいたものに見えるのである。

 宗教を興す者も、教祖も、人間である。人間である以上、人間としての営みは不可欠である。聖者も、教祖も、生身の人間である。食事もしなければならないし、眠りもする。
 宗教を興す者は、基本的に求道者、修行者なのである。さもなくばペテン師である。
 求道者か、ペテン師かを区別するのは難しい。ただ、いえるのは、求道者であるならば、生活は、禁欲的で、質素である。また、世俗的な欲望には無縁である。
 禁欲的で、質素な生活をしていれば、生活にかかる費用は少ないはずである。また、労働をいとわなければ、生活に必要な物資は自給できる。必然的に生活には困らなくなる。
 また、信者が多くいて、その信者が少なからず布施や献金をすれば、お金が集まるのである。お金が集まれば、それは利権と化す。その利権を求めてハイエナのごとき、悪党が集まってくる。宗教団体は、悪党どもに食いつぶされ、人を誑かすための道具にされてしまう。
 新興宗教がいかがわしい団体に変質する要因や動機は、数多くあるのである。
 だからこそ、使い道のない金が余るのも困ったものなのである。しかし、使い道を過たなければ、宗教団体は、世俗の組織の補完機関として重要な役割を担うことが可能となる。

  信仰は、政治や経済の効率を高める。

 世界の観光地のほとんどは、宗教施設である。それほど、世界の富は、宗教団体に集まる。つまり、宗教というのは、きわめて、政治的、経済的効率が良いのである。
 そして、それが宗教団体の腐敗堕落の原因でもある。

 皮肉なことに俗世の問題から超然とした存在を核としているからこそ政治力や経済力を高めることが可能なのである。しかし、それがまた、世俗の欲望に弱い体質ともなる。
 信仰は、力を高めるとともに力を弱める原因ともなるのである。

 信仰心は、日々の生活に目的を与え、効率的なものにする。喜捨、布施、献金は生きる目的にもなるのである。その結果、宗教団体の中心に金は集まる。しかし、本来、宗教は禁欲的である。集めた金の使い道に困るのである。その結果、壮麗な建造物が作られるのである。建造物は、象徴ともなる。

 金余りこそが問題なのである。余った金を効率よく社会に還元できる仕組みをもった宗教団体だけが、信仰の健全さを保ち生き残ることが可能なのである。
 だからこそ、宗教者は、経済的感覚が求められるのである。効率よく集めた金を効率よく社会に還元する仕組みがあれば、宗教団体は、社会にとってなくてはならない存在になる。
 それは、寺子屋と言われるように、宗教団体は、教育機関になったり、孤児院や、医療機関になったり、失業対策機関や、災害時の救護所になったり、社会福祉事業の要になったしてきたのである。

 それは国民国家も同様である。また、国民国家本来の役割は、国民の福利厚生を計ることにある。

 宗教団体は、効率よく資金を集める機関にもなり得る。故に、腐敗堕落しやすい性格も持っているのである。

 故に、宗教団体を担う者は、修行者であることが求められるのである。
 自らを厳しく律することのできない者は、誘惑に脆い。宗教団体の指導者は、本来、強い使命感をもった求道者でなければならないのである。

 聖なる存在を司るものは、常に、自分の潔癖を明らかにしていなければならない。自らの行いや考えを明らかにできなければ、自らの潔癖を証明できないのである。
 故に、最も、生臭い、政治や経済に対する自分の信条、行いを開示することが求められるのである。
 その上で、自分の身辺を常にきれいにし、清潔にしておくことが求められるのである。
 人は、神を直接見ることはできない。故に、神に仕える者の行いを見て信仰の真実を推し量るからである。
 神に仕えるものは、身ぎれいでなければならない。聖なる存在を汚さないためにも、質素で清潔な生活を心がけなければならない。それ故に、神に仕える者は、禁欲と節度が求められるのである。
 そして、それが修行でもあり、救いでもある。
 労働は、単に、生業というだけでなく行なのである。だから、勤勉は、人としての務めであり。故に、勤労に感謝するのである。結果的に生産効率が上がる。

 信仰は美学である。

 また、信仰を担う者達の日々の生活や生き様こそ聖なるものをこの世に現すことになるのである。

 信仰は、衆生の救済故に意義がある。
 世俗を否定してしまえば、信仰は実を失う。
 聖と俗は表裏の関係にあるのである。
 その点を忘れて世俗を見下していたら、それは、宗教の本質を否定することになる。
 世俗を否定することは、ややもすると、経済や政治を頭から否定することに繋がる。
 それが、自分たちの経済の話をいかがわしいものにしてしまうのである。
 人間は、人間である宿命から逃れられないのである。
 聖と俗とは、不利不可分の関係にある。

 重要なのは、信仰を土台とした互助組織こそ人類を救済する究極の道だという事である。

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