2009年2月23日

神について思う

現代の神


 子供にせがまれれて、年に何度か、ディズニーランドに行く。世の中が不況になってもディズニーランドは、人が溢れている。
 ディズニーランドにあるものは、よくできてはいるが、全て、作り物である。将に、そこは、人間が作り出した楽園である。
 ディズニーは、毎日繰り広げられるショーやパレードが売り物である。そこでは、毎夜、華やかな式典が繰り広げられ、いろいろな、メッセージか繰り返し唱えられる。
 ディズニーランドのパレードを見ていると、この様なパレードこそ、現代の祭り、現代の祭礼の姿ではないのかと思えてくる。
 その背後に存在するのが、現代人の神である。科学とか、合理主義といった経典によって形作られた神である。
 そして、アニメや映画、ゲームによって神話や伝説が形作られている。
 いろいろなショーやパレード、イベントは、姿こそ違っているが、その実態は、何かの宗教の儀式のように見える。
 更に言えば、オリンピックや万博は、現代の祭典の典型ではないのか。現代絵画や音楽は、現代の神への捧げ物のようである。そして、その背後にほのかに見えるのは、何を現代人は、神として崇めているのかである。
 現代社会は、毎日がお祭りのような社会である。
 神なき世に、毎日、主の見えない祭礼が続いている。そこに宿る者は、神なのか、人なのか、はたまた、金なのか。

 現代社会には、いたる所に神がいる。
 映画の中やテレビの中にも、ビデオやゲーム、漫画の中にも神がいる。
 学校の中にも神がいる。
 
 映画やテレビの中の神は、自分達の都合で人間が創りだした神に過ぎない。懼れ、敬う対象ではない。ただ得体の知れない怪奇な存在でしかない。

 学校に君臨する神は、教科書を聖典とし、全知全能を力で子供達を支配する。
 今の教育は、根拠なき信仰のようなものである。
 教えられた事をひたすらに信じる以外に、生徒達に救いはない。

 試験合格のための必勝祈願に神は、かり出される。
 占いや合格祈願、縁結び、厄よけと言った現世利益のため利用するための神にすぎない。
 神様だって金儲けに利用されているのである。

 医者の中には、神の手を持つと崇められる者もいる。
 そして、原子爆弾は、全能の神の力のように振る舞う。
 驕り高ぶる人間は、生命まで作り出せると思い込んでいる。

 神を否定する者は、自らを神とする。

 現代の神は、無神論者の神である。いうなれば、神なき者の神である。
 神なき者の神は、超越的存在としての神ではない。人間か畏怖し、自らを戒めるような存在ではない。真(まこと)のない神である。

 神を否定した者にこの世は、満ちているのであるから、神は至る所にいる。
 現代人は、神を否定した。ならば現代人は、自らを神として崇めているのか。そこにまがまがしさがある。

 我々は、近代科学が発達する以前の人間を、迷信に囚われた無知蒙昧な人間と決めつけている。しかし、例え迷信だとしても彼等は、死後どうなるかを確信していた。すくなくも、死後の世界を自分達は知っているつもりでいた。そして、何者かを怖れ、自らを戒めて生きてきた。
 それを現代人は、迷信とあざ笑うが、現代人は、その迷信すら信じられないのである。在るのは、死後に対すいる漠然とした不安と恐怖である。その不安や恐怖のどこに真実があるというのであろうか。

 科学は、仮説として成り立っている。結局、物理学の法則も仮説に過ぎない。なのに、現代人は、それを普遍的な真理のようにまことしやかに言う。
 現代人は、科学という衣を着せると、何でも、絶対普遍の真理というように捉えてしまう。
 しかし、ビックバンのような説も、その根拠を辿ると直観的な仮説に至る、迷信とした宗教的真理と何ら変わらない。つまり、科学と言っても、科学の仮説を信じるか否かは、神を信じるか、否かと大差ないのである。
 結局、科学の仮説も現代の神話に過ぎないのかもしれない。

 現代科学を絶対的真理として広めている機関は、教科書を聖典としている学校である。
 そうなると、現代社会は、高度に宗教的な社会となる。神を信じぬ宗教的社会、それが現代社会の実相かもしれない。
 現代では、学校の教科書に書かれていることが絶対である。ある意味で、学校の教科書は、聖典に近い。考えてみればそれ以上であるかもしれない。
 聖書に書かれたことを国民に丸暗記させ、試験などしなかったのであるから・・・。しかも、それが、さも、ごく当然な真理として刷り込んだりはしなかったのであるから・・・。人々は、意識せずに、ある種の信仰を刷り込まれていると言ってもいい。

 なるほど、科学技術が発展し、乳幼児の死亡率は低下し、多くの難病も克服された。
 しかし、死という現実は、何も解決されていない。むしろ謎が深まったようにすらみえる。
 死という現実に科学技術は、無力なのである。

 本来、宗教も芸術も科学も死への恐怖から逃れるためのものであったはずある。近代科学の発達は、この死という現実を目眩(めくら)まししているにすぎない。ところが、現代人は、その事実を自覚していない。だから、既成の宗教を迷信だとしりぞける。しりぞければ、しりぞけるほど死後の世界に対する確信は薄れる。

 だからこそ、死にたいする恐怖は納まるどころか増している。
 現代人は、その事実から目をそむけている。だから、妙な宗教が流行る。

 死によって自分の人生をリセットすることができるとしたら、自分の人生に対して責任を持つことができるであろうか。
 命がけで国を護ったところで、死後、敵国に生まれ変わることがあるとしたら、意味がない。神のために、命を捧げても、その神が存在しなければ、何にもならない。結局、信じる以外に救いはない。信じる以外ないとしても確信が持てなければ虚しいかぎりである。

 輪廻転生も臨死体験も前世も、現代の神話に過ぎない。
 結局、死後の世界は、今のところ誰にも解らないのである。
 そして、それが神の意志なのかもしれない。

 もし仮に、自分の死によってあらゆるものが無に帰すと信じるとしたら、その者にとって人の一生は、生まれた時から、全てが虚しいであろう。
 なぜならば、自分の人生はあってもなくても同じ物だと断定するようなものだからである。

 所詮、最後に問題なのは、その人の死に様なのだ。なぜならば、人は、死ぬのだからか。少なくとも、ほとんどの人間は、自分は死ぬと思っているのだから。

 生きることばかりが全てではない。所詮、人は死んでいくのである。今日、運良く生き延びたとしても、明日つまらぬ事であっさり命を落とすこともある。

 死をどう考えるのか。つまり、死後の世界を信じるか。信じるとして、死後の世界をどう捉えるのかによって生き方が違ってくる。
 自爆テロをした人間が、よもや死後の世界を信じていないなんて事はなかろう。極悪非道なことをする人間は、死後の世界など信じてはいまい。
 そうでなくとも、自分の愛する者、家族を刹那的な快楽のために、捨てたり、道徳や正義などに無縁な生き方は、死後の世界を怖れる者にはできまい。
 では、科学は、死後の世界を否定しているのか。そこが判然としない。判然とさせないままに、自己の勝手に委ねている。そうなれば、必然的に自分の都合のいいようにしか解釈しない。結果、社会、風俗は乱れ、勝手気儘な生き方が横行する。

 死刑囚と、無期徒刑者の違いである。一方は、死を自覚し、一方は、死から逃れられると思っている。しかし、結果は、同じ死である。殺されるか否かの違いに過ぎない。人は、死の前に平等なのである。
 結果としての死を見ていたら、それは理解できない。結果は、同じだからである。要は、死に様なのである。
 生きるべき意義は、死すべき意義に通じる。
 なぜ、死に至ったかが問題なのである。
 戦争で死んだ者は、いたわしい。しかし、その大義は明らかである。
 その点、生き残った者は、無惨である。生き残ったことの意義を、見失い、終生、生きる事の意義を問い続ける事になる。
 もし、この世に、ただ一人生き残った時の事を考えてみよう。一人、誰もいない世界に取り残されたら、絶望的な孤独に追いやられる。それこそ地獄である。
 だから、不憫だと子を道連れにして心中する親が後を絶たないのである。
 死の向こうにある世界を信じんが為に人は神を必要とするのである。
 死の向こうにある世界とは、必ずしも死後の世界を言うのではない。
 生と死を超越した彼方を言うのである。
 今日の生をより確かなものにするために、神を信じるのである。

 現代人は、神の力を侮っている。そして、自分達の力を過信している。
 科学は、万能だと思い上がっている。
 その結果は、地震であり、津波であり、原発事故であり、戦争であり、恐慌であり、温暖化である。
 人間は自らを神としてしまったのである。
 悔い改めなければ、その報いは、いずれとらされるであろう。
 かつて人は、神の子を十字架にかけたのである。
 また、同じ過ちを繰り返そうとしている。

 現代人は、古の神を迷信だと言ってしりぞけた。
 そして、その後に、科学というなの神をすえた。
 しかし、悩ましいことにこの神は、死という現実に無力なのである。
 それ故に、人は、刹那的快楽と欲望に身を委ねるしかないのである。麻薬や薬によって、快楽によってと言う現実から逃避するしかないのである。
 現実を仮装することによって現実を覆い隠す。
 その為にあらゆるメディアが動員されている。現実よりも現実らしく装われた世界へと誘(いざな)う。そして、古の神の迷信だと自分達がしりぞけた、在りもしない死後の世界を描き出しているのである。
 無神という神に、自分の身と最愛の家族を生け贄にさしだして、幸せの代償に快楽を得ようとしているのである。
 それが現代の神、祭礼である。







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