2001年1月6日

神について思う

修    行


 修業とは、活き活き(いきいき)と生きる事である。そして、修業の場は、日常生活の場である。陽明学で言うところの事上の錬磨が基本である。

 今、最善を尽くすことが修業なのである。天国に行くとか、行かないと言うのは、二義的なことである。大体、最善を尽くさなければ、天国があったとしても行けない。天国に行くために最善を尽くすとしたら、それは、本末の転倒である。結局、動機が不純である。天国に行くために最善を尽くすと言ったら、その動機によって最善を尽くしていることにはならない。いずれにしても、ただ、ひたすらに最善を尽くす以外になくなる。つまり、天国に行けるかどうかは、結果に過ぎないのである。

 最善を尽くすというのは、やりたい事を、節操もなく、信念もなくやる事を意味しているのではない。善を尽くす事である。
 戦後の日本人は、刹那主義、もっと言えば、刹那的快楽主義、利己主義と個人主義とを混同しているか、無理に、又は、故意に結びつけている。
 自分さえよければのよければは、善ければである。根本は、善である。自己善である。欲望や快楽ではない。欲望や快楽は、善を阻害することはあっても善を尽くす助けになることは余りない。だからこそ、よく善を極める者は、禁欲的なのである。
 それに、自分さえ善ければと言うが、自分を支えている人間関係を抜きにして、自分さえ善ければとは言えない。その上に、人間関係は迷惑によって成り立っている。迷惑さえかけなければと言うのは、最初から成り立たない。親に迷惑をかけない子はいないし、子に迷惑をかけない親もいない。だから、人間関係は、お互い様で成り立っている。お陰様なのである。
 人間関係は、迷惑を基礎にして、お互い様、お陰様、だから、感謝するのである。この人間関係こそ修業の根本にある。
 ならばお互いのためにならない事を奨励するはずがない。誘惑から自己を抑制し、自制することが修業なのである。ご馳走に囲まれても、自らを律するために、食を抑制する。それは、修業である。現代社会は、誘惑が多い。その中で、抑制した生活をするのは、大変な努力が必要である。しかも、それは、適正な抑制であり、過度の禁欲ではない。
 女性のダイエットは、その動機が純粋ならば、ある種の修業だと言えないこともない。ただ、問題は、その動機である。善を成さんが為に、食を制限するのならば、修業と言える。心身を鍛えるために、食を制限するのも修業である。しかし、ただ、人に好かれたいために、見栄えをよくするためにと言う動機では修業にはならない。だから、拒食症になる。自分を抑えられなくなるのである。真の美を追究するならば、先ずその生き方に求めるべきであり、姿形に囚われるべきではない。

 人は、迷惑をかけるから必要とされる。子は、親に迷惑をかけることによって親に必要とされる。親は、子に迷惑をかけるから必要とされる。友は、友に迷惑をかける存在である。おまえに迷惑をかけたくないと親が子に言うのは、おまえは、必要ではないと言うようなものである。

 礼節を極める事は、修業である。礼節は、意識した時、失礼となる。礼節は、内面の状態を素直に現す。礼儀作法によって人は、自己の内面を外に表す。それ故に、礼儀は様式美である。礼節を極めると礼儀作法は無意識に行う。その時、内面の善と外面の行動は一体となる。その時、礼節は、真善美一如となる。克己復礼、それは修業である。己に克ちて、礼に復する。修業は、真と善と美を追究することである。真善美を一体とするのは、修業における究極的目的の一つである。

 最善を尽くすとは、その一瞬、一瞬に決断する事である。我々は、いつどの様な災難、惨禍に見舞われるか予測がつかない。いついかなる時でも最善を尽くすことができるか。それが修業である。決断とは、決して断じる事である。迷いを断ち、未練を捨てることこそ修業の骨頂である。その一瞬に善を極めて決断する。己をその一瞬、一瞬に燃やし尽くす。その積み重ねが、自分を純化するのである。義を見てせざるは勇なきなり。正しいと信じたならば、断固として決断する。信念を貫徹する。その過程こそが修業なのである。裂帛の気合いをもって決断をする。それが修業である。
 そして、自らの行いに責任を持つ。それも修業である。

 潔く生きるのも修業である。責任をとるのも修業である。修業は、日常生活にある。俗世を離れ、誘惑から遠のいたら、修業にならない。毎日、毎日が修業なのである。誘惑と葛藤することによって自分を磨くのが修業である。
 衆生の中に自分を生かす。生活にこそ道場があるのである。

 生きるとは、気迫である。その時に自分の全てを出し切ることそれが修業である。故に、呼吸こそ修業である。正しい呼吸をすることこそ修業である。心気力一体とするのも修業の目的の一つである。
 肉体を鍛えるのも、修業である。鍛錬である。

 修業は、善を極めることである。善を極めるために、心を清浄に保つことである。平常心である。明鏡止水の境地である。
 その為に瞑想をする。そして、常に、清潔を保つ。それが修業である。心身の清浄こそ修業である。

 公に尽くす事こそ修業である。公徳心こそ修業である。私を尽くした時、自己善を極めた時、無私となる。その時、公と私は、一体となる。

 人を愛することは修業である。愛する人達を幸せにすることは、修業の究極の目的である。至上の愛によって無私となることである。無私となった時、自分と普遍的な存在は一体になる。それこそが修業の極致である。

 修業は祈りである。ただひたすらに祈る。それは修業である。



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