一人の乙女が、すっと立ち上がると、その方に向かって手を合わせ、祈るように、こう尋ねた。

 祈りとは、何でしょう。祈る必要は、あるのでしょうか。祈る心とは、何なのでしょう。

 その方は、その乙女の方を振り返ると、優しく答えられた。

 祈りの本源は、思いです。自分の思いは、人に伝わるとはかぎりません。また、思いが伝わったとしても、どうしようもないこともあります。
 どの様な思いも、生病老死の本然的な苦を、解決はしてくれません。思いだけでは、苦しみから、逃れることは、できないのです。
 むしろ、思いが、強ければ、強いほど、苦しみは、増すのです。
 だから、人は祈るのです。
 祈らずには、いられないのです。

 信仰は無意味です。
 意味は、人の世界の事象です。
 意味に囚われていたら信仰は成就しません。
 信仰は、意味もなく信じることです。
 信仰に意味を持たせるのは、人です。
 意味があって祈るのではありません。
 ただ無心に祈るのです。

 世の中は、自分の思い通りにはいかない。
 それは、そうだろう。
 世の中と自分の世界は違うもの。
 そう思っていなければ、やってられないよ。

 人は、寒風、吹きすさぶ荒れ野に一人立ちつくした時、神に祈りを捧げる。

 絶望に打ちひしがれた時、
 挫折から立ち直れなくなった時、
 哀しくて哀しくて仕方がない時、
 無視された時、
 迫害され、弾圧された時、
 馬鹿にされた時、
 怒りや憎しみに負けそうになった時、
 恥ずかしい時、
 差別された時、
 大切なものを失った時、
 平静さを失った時、
 苦しい時、
 新しいことに挑戦しようとする時、
 未知な世界に踏み出そうとする時、
 誰も理解してくれない時、
 何が正しくて、何が間違っているのかがわからなくなった時、
 自分の罪や過ちを認める時、
 人の罪や過ちを正す時、
 生まれ変わろうとした時、
 嬉しい時、
 成功した時、
 感謝した気持ちを、誰かに伝えたくなった時、
 何かを誓う時、
 重い病に冒された時、
 逝く時、
 最愛の人を失った時、
 生きる希望がなくなった時、
 何も信じられなくなった時、
 何をしていいのかわからなくなった時、
 自分や他人を許せなくなった時、
 自分の無力さに気がついた時、
 危機に陥った時、
 救いを求めた時、
 神を信じられなくなった時、
 人は、神に、祈るしかないのです。

 別れは、必ず訪れます。
 しかも、その時は、いつ訪れるのかわかりません。
 幸せの絶頂の時、挫折や失敗に絶望している時、別れは、時を選ばずに訪れるのです。
 幸せの絶頂の時に別れが訪れた人と、絶望した時に、別れが、追い打ちをかけた人のどちらが不幸か、それは、誰にもわからない。それは、その人の心の有り様が決めるからです。だから人は祈るのです。祈らずには、いられないのです。
 人は、何に祈るのか。神にです。だからこそ、神は、必要とされるのです。

 神の本質は、愛です。至上の愛です。
 許し合う以外に、救いはないのです。だからこそ、神の本質は、愛なのです。
 愛は、祈りです。
 神に自分の思いをぶつける事、それが祈りです。
 そして、神のみが自分の思いを受け止めてくれるのです。
 それが、至上の愛です。

 病は、治すだけでは駄目なのです。
 癒さなければ、駄目なのです。
 癒さなければならないのは、心です。
 気をこもれば思いとなり、思いをこもれば心となる。心を込めれば命となる。
 故に、癒されなければならないのは、心です。
 故に、祈るのです。祈ることによって癒されるのです。

 神を信じるだけで、幸せになれるんです。
 なぜなら、人は、信じることによって癒されるからです。
 神を信じ、ただ、ひたすらに、祈るのです。

 人の思いは、わかろうとしても、わからない。
 わかってもらおうとしても、わかってもらえない。
 わかったと思うそばから、また、わからなくなる。
 永遠の愛を誓った者達が、些細な事で別れていく。
 子をなした愛だからだというのに、結局、何も、わからなかった、わかってもらえなかった、分かり合えなかったとつぶやいて別れていく。
 自分の、腹を痛めて産んだ子ですら、時々理解できなくなる。
 血を分けた、兄弟同士が、醜い争いをして世の中を騒がせる。

 なぜと神に問う。

 全ての思いが、伝わると思う事が、愚かなのだ。
 なぜなら、思いは、自己の内面にある。だから、自分の思いは、神にしか通じない。
 だから、人は神を必要とし、神に祈る。
 神に、祈ることによって、相手を許し、自分をも許す。
 その時、人に自分の思いが通じるようになる。
 なぜなら、人は、思いの後ろに神を感じるからであり、相手の後ろに神を見いだすからです。
 故に、神の本質は、愛なのです。
 人を癒すことのできるのは、神だけなのだ。
 神の本質は、裁くことではなく。許すことです。ただ、ひたすらに許す。それが、神の本質です。

 神に祈ることで、神の意志を変えようと思っても無駄です。
 神の意志は、不変です。
 祈ろうと、祈るまいと神には、無縁です。
 神に祈ることによって変わるのは、あなたです。
 だから、ひたすらに祈るのです。
 祈る事によって神の英気を心に養うのです。
 生きる勇気を得るのです。
 魂の救済を求めるのです。
 明日への希望を持つのです。
 神の愛を、受け止めるのです。
 神の祝福を受けるのです。
 それが祈りです。
 祈りは、神のためにするのではありません。
 あなた自身が救われるためにするのです。
 故に、祈り、そして感謝するのです。
 祈りによって現世利益を求めるのは愚かです。

 あなたは、神をどのような時に感じますか。
 雲の切れ間から夕日が川面に射し込み、ああきれいだなと、感じた時、私は、神の恩寵を感じます。

 あなたの力では、どうしようもない事にであった時、自分を越えたところにある偉大な力を感じるでしょう。
 それこそが神の力なのです。
 その時、神に祈るのです。
 今日ここに生きて在る事を神に感謝するのです。
 神に感謝するのです。
 神に祈るしかないのです。

 祈るしかないのです。
 
いかに科学、医学が発達しても、生病老死の苦しみから、逃れられるわけではない。
 若く輝いている人もやがては、やがては老い、死んでいかなければなりません。
 いかに、相手を思い、悩み苦しんでも、届かぬ思いがある。
 どんなに用心、注意しても、不慮の事故に、遭遇することがある。
 すばらしい出会いにも、必ず哀しい別れがある。
 人は、避けられぬ運命に出会った時、ただ、ひたすらに、祈るしかないのです。

 何を祈るのかは、胸に手を当てて考えればいいのです。




                 
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