神について思う

神は許し


私は、イエスの言葉、新約から多くの事を学びました。そして、荘子、老子、仏教、それから、易経ですね。易経は素晴らしいです。でも一番多くを学んだのは、物理学と数学ですね。そして、私は、ある時、神と一対一に対峙する事にしました。

何が許せないのか、それを問い続けました。
イエスはなぜ死ななければならなかったのか。そして、イエスの死を我々は、受け止めているのか。

神は、許しです。神は、救いです。
神の赦しや救いを拒んでいるのは人です。
人間の体に貴賤はありません。肛門だから汚れていて心臓だから清らかだなんてことはありません。
そう考えるのは、人間の方です。
神は、人間が存在するずっと以前から存在し、そして、仮に人間が滅んだとしても存在し続けます。
神を必要としているのは、人間であって、神は人間を必要とはしていません。
人が人の行いによって滅んだとしてもそれは人の罪です。
神は、人間だけの為に存在するわけではない。
神は、神自身の力で存在できるのです。
神にあるのは、慈悲であり、救いです。
幸福な時、人は神を侮り、不幸になると神を罵る。しかし、神は神です。
人は、自分の都合や思いで勝手に神を思い描く。
しかし、神は、人間の都合や思いで動かされたりはしない。
人が泣こうが喚こうが、神は神です。
神に問う事なかれ。問うならば自らに問え。それが私の答えです。
浩然の気と言う言葉があります。もし相手の名誉を傷つけたら、たとえ相手が卑しい者であったとしても相手を怖れる。しかし、もし自分が正しいと信じるのなら敵は幾万いようとも我一人行かん。それが浩然の気です。
マタイ伝の中でイエスは、神に向かって神よ神よ我を見捨てたもうたかと叫んだとされます。それこそがイエスのイエスたるゆえんです。
だから、私は、何々教の神など信じません。神は神なのです。神は神でいいのです。
私は、無心に、神に祈り、神に許しをこい続けます。
神に求められているのは無垢な魂です。
人は、最初から完全無欠、絶対な存在にはなれないのです。
物理学は、私にそれを教えてくれました。
神のものは神へ、人のものは人へ。
人が犯した罪を贖うのは人です。神に求めるべきではないし、神に求めても解決できないのです。
奇蹟とは、天地が避け、死人が生き返るような事ではありません。
明日、今日と同じように太陽が昇る事こそ奇蹟なのです。
人は、生病老死の四苦を乗り越えてはいません。人は、無力です。
無力さを受け入れた時、人は神を受け入れる事が出来る。
それが救い。それが許し。それが信仰です。
どんな悪党も、権力者も、聖人も皆死の前に平等なのです。
死ねば一人神の前に立たされるのです。
その時、自分が許せますか。


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