神について思う

友人の母の死に際して


今、こんなことを申し上げるのは気が引けるのですが…。
母親や父親の介護というのは、いろいろな事を考えさせられますよね。
頭で生きるとか、人生とはとか考えるのとは違って、生々しく。本当の格闘なんですよね。口で言うのは容易いけれど…。
心底、神について考えさせられ、生きるとか、自分の存在とか、自分何によってこの世に生み出され、生かされ、そして、死んでいくのか。
なぜ、それは自分の病以上に人と人との関わり合いを考えさせられ。
結局、人生は関りなんですよ。その人の人生なんて関りでしか見えてこない。
疲れ果て、楽になりたいと思い、そして、いつ果てるともなく。先が見えない。先に希望がない。だからこそ生きる事の本質が透けて見える。
しかも、己の醜さも哀れさも、これまで自分がしてきた事が何だったのか。これまで自分が言ってきたことは何だったなのか。
まるで、存在している事が当たり前で、自分の存在よりも確固たるもの、自分を生み出した根源が、音を立てて崩れ去っていく。
その時、真実の自分と正面から向き合わされる。純なる魂が、虚飾を剥ぎ取られて眼前に現れてくる。
どんなにきれいごとを言っても臭くて、汚くて、醜い。汚物、糞尿と格闘しながら、なぜと問い、どうしてと問わざるを得なくなる。やがて涙も枯れ果て、生死を越えた境地に導かれていく。諦めではないけれど…。別れを別れとして受け入れざるをえない心境に追い遣られていく。透徹した目ですね。
自分が愛し、何よりも大切にしていた存在。自分を愛し、何よりも大切にしてくれた存在。
だから・・・。哀しく、切ない。
これほどまでも弱々しく。脆いものなのか。
身内が大病だとわかったら人生は一変してしまいますからね。
それまでの生活は音を立てて崩れ去っていく。
自分ではない理由で…。でも自分の本質的な理由でもあるんですね、
私の母は、今は、達者だけれど、いつか自分が下の世話を含めて引き受けていなかければならない。それこそ夜も昼ものですね。逃げられない。
そう思うと今から身の毛のよだつ思いがします。
母は、皆に迷惑をかけたくないと言いますが、それも寂しい。
本当に生きるという事は壮絶なんですよね。その壮絶さから今は目を背けて生きていますけれど…。
今の日本人は、つかの間、目を背けて生きていけるんですよね。



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