2001年1月6日

神について思う

神に属性はない



神に属性なしというのが、僕の基本的テーゼです。

一にも二つの意味があります。
一つ、二つの意味の一と
ただ一つの意味の一です。
唯一神と言った場合、どちらを意味するのかによって全然違ってきます。
他を認めれば、一つ、二つの意味の一になり、
他を認めなければ唯一になります。
この辺が日本人には解っていない。
本来の
唯一神というのは、他を認めない。
他がないという意味で唯一神なのだと思います。
その場合、比較すべきものがあれば
他があることになります。
つまり、他がないというのは、
比較すべきものがないという事を意味するのです。
属性を認めれば、比較すべき物、つまり、他が生じる。
神は、唯一の存在だと私は規定します。
だから、神に属性を認めないのです。

他に比較するものがないというのは、自己も同じです。
自己も唯一の存在です。
その意味からしても神は唯一の存在なのです。
と言うよりも、自己が唯一だから、
神も唯一の存在になるのは必然的なことなのである。
自己と神とは、一対一の関係なのです。

神について語らないと言うのが科学の姿勢です。
とりあえず、存在するとも、しないともしない。
多くの哲学は、神の属性について検討しています。
というより、イデアやダルマと言った神を神たらしめる属性を問題にしています。
宗教は、属性をもった神を無条件に受け容れます。

しかし、僕は、元々、神に属性はないと定義します。
だから、神を神たらしめている属性なんて最初から問題にしていないのです。
つまり、純粋な存在です。
神に属性があれば、神は、不完全な存在になります。
神の存在の前提は、自己の存在です。
自己の存在によって神の存在を認識するのです。
つまり、神は、属性をもたず。
存在の有り様の中に存在する。
言葉ではなく。自分の存在そのものの有り様の中に、
神の存在は、証明され、内包されている。
それが神です。

つまり、生きている自分と生かしている神との関係こそが前提となっているのです。
この関係にこそ真実が隠されている。
神は、自己との関係の中に居られる。

ならば、なぜ神に対する信仰が必要なのか。
それは、主体的存在である自己は、対象を識別するために、対象を区別、分別せざるをえないからです。
その瞬間に、対象の完全性、絶対性は失われる。
つまり、識別された物からなる認識によってしか、我々は、意識を構築しえない以上、我々の意識は、最初から不完全で相対的なものでしかないという事です。
その相対的意識によって自分達が生きていかなければならない以上、それを超越したところに、原点を置いておかないと対象の変化を是正で聞かなくなり、本来相対的であるべき意識を絶対化するからです。
だから、我々は神を必要とするのです。

自分を許さない存在があるとしたら、
それは神ではなく。自分なんです。
だから神を必要とするのです。

なぜ、神を必要とするのか。
僕にとっては、自分に勝つためですよね。
傲慢にならないために。
卑屈にならないために。
めげないために。
自分の書いた理念を独占したいという欲望。
自分の理念に対して卑屈にならないために。
相手の批判に寛容になるために。
思い上がらないために。
自分を絶対視しないために。
妬まないようにするために。
猜疑心に潰されないために。
相手の間違いに寛容になるために。
そして、自分のミスや過ちを許せるようになるために。
僕が最も怖れるのは自分です。
他人を許すことは難しいけれど
自分を許すことは更に難しい。
謙虚さは傲慢に繋がり、
愛情は、嫉妬を生む。
その自分を克服するために、僕は神を必要としているのです。

人は、神が神である理由を求めます。
だから、神に神であることの証明を求めます。
しかし、神は神である理由を必要としません。
だから、神は、自らを証明する必要がありません。
神は、神である必要はないのです。
神を求めているのは人間なのですから。





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