神について思う



人は、いつも自分が生み出したものを怖れている。
人は、なぜ、自分が生み出したものを怖れるのか。
それは、人間の本性を生み出したものの中に見るからである。
人が怖れているのは、物ではなく、人である。

大古、人は、金属を生み出した。
金属は、武器を生み出した。
かつて人は、機械を生み出した。
それは、最新兵器をも同時に生み出すのである。
それから原子力を手に入れた。
それは核兵器の元となったのである。
今、人は、遺伝子操作による産物や人工知能を生み出そうとしている。
今また、人は、遺伝子や人工知能を怖れ始めている。

しかし、それらは自分の本性を映し出す鏡でもある。

神は、自分が生み出したものを怖れはしない。
神は完全であり、無分別な存在だからである。

人は、不完全であり、分別がなければ生きられない。
そして、分別によって人は傲慢になり、人と人とをわけ隔てる。
人にとって分別は、不可欠だけれど、分別が人を怖れさせるのである。

技術が発達すれば、人は働かなくてもいいようになる。
しかし、働かなければ生きていけないのが人間であることを忘れてはならない。
人が働かなくてもいいようにするのが分別ならば、働かなければ生きていけないと気が付くのも分別である。
人が、分別によって栄え、分別によって恐れる。
それは人が神を怖れなくなり、蔑ろにするからである。
人は自らの限界を知り、己の弱さを自覚しないから自分の影におびえるのである。

信仰のみが人を救える。
なぜならば神は、絶対であり、完全であり、限りがなく、無分別な存在だからである。

人が神を越えられないように人が生み出したものも神を超える事はできない。
恐れるべきなのは神なのである。
人が生み出した物がたとえ人の限界を超えたとしても神を超える事はできない。
人が生み出すものを怖れること自体、人の傲慢さである。

神を信じ、神に全てを委ねる以外、人は救われないのである。


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