神について思う

民主主義や自由主義、科学を支えているのは、信仰である。


民主主義や自由主義、科学、貨幣経済が、成立し維持されるのに不可欠なのは、唯一絶対なる存在に対する信仰である。
近代とい時代を築き上げたのは、キリスト教という一神教であることは、あながち偶然ではない。

今日、人間関係上で、起こっている問題の多くは、同一性の問題だと考えられる。
自分の同一性を保てる人間は、少ないと思われる。
複数の相矛盾した価値観が混在していてその統一性を保つ事が困難な状態に多くの人は、陥っている。

人格の統一というのは、簡単そうで難しく。
ほとんどの人は、人格を構成する複数の要素が複雑に絡み合っていると思う。

なぜ、一つの人格に複数の価値観や性格が混在するのかというとそれは生れて育った環境や人間関係、何らかの事件、置かれる状況、その人の持って生まれた性格や気質、また、遺伝的要素等、色々な要素が複雑に絡み合って形成される。故に、複数の価値観や性格が混在する原因を一意的に断定することは困難です。
大体、因果関係を一意的に決めつけられないし、決めつけてしまうのは、現代人の悪癖だと思う。
一般に人は、人格を構成する複数の要素が複雑に絡み合っていると思うのです。
それらが整合性を保たれているうちはいいが、その均衡が崩れると自己の同一性を保つ事ができなくなる。

複数の要素とは、先天的な性格、遺伝子、能力、養育環境、親との関係、生活環境、幼児期の体験、身体的な障害、欠点、他人から言われたちょっとした言葉等、多種多様で何が切っ掛けなのかも特定できない場合がほとんどです。
ただ何かの事象、出来事に鋭敏に反応していることが原因だと思われる。
感受性が高く、知的な能力の高い人ほど、深刻な形で何らかの障害を抱え込んでいる場合が多いと思われます。

価値観なんて本来相対的な事である。絶対的価値観を前提とすること自体意味がない。
この様な相対的な価値観の統一性と継続性を保とうとしたら自己を超越したところに絶対的存在を想定する以外にない。
それが神であり、神を受け入れない限り、人は自己の同一性を保てないのである。

多くの人は、自分の行為を反省し、次の行為に活かそうとする。
しかし、自己の存在が不安定な者は、継続的な自己を維持する事ができなくなり、刹那的な判断、その時その時の好き嫌いによって行動する事がある。
心の均衡が保たれないから、自己を抑制し、制御する事ができない状態に陥っているのである。
人は、一般に物事の全体の中に事象を位置付けて判断するが、自己の継続性を失った者は、全体を見ないでここの部分に反応する傾向がある。普通人は、良い事と悪い事を同時に想定しながら、心の均衡を保っているが、自己の統一性を失っている者は、良い事は良い、悪い事は悪いと個々別々に受け止めてしまう傾向がある。それが極端から極端、オール・オア・ナッシングな判断に陥り、曖昧な判断を受け付けなくなる。しかし、世の中には、黒白がはっきりした事ばかりではない。そういう局面になると自己を制御する事ができなくなるのである。

我々は、個として完結してはいるが、人として全体的世界の一部でもある。個としての自分を全体的世界に位置付ける事ができなければ、人は自分の居場所を現実の世界に見出すことはできない。
個としての主体であると同時に全体世界の部分としての自分の整合性をとらなければ、部分を構成する自己と全体としての世界との一貫性が損なわれるのである。

全体に対して個としての自分を位置付けるためには、主体的自己を客体として相対化する必要がある。
私は自分という主体であると同時に、人として客体なのである。
これを両立させるためには、私という自分を超越した存在を前提し、それを受け入れる以外にないのである。

唯一絶対なる存在、自己を超越した存在である神の存在を受け入れないかぎり、自己を相対化する事はできない。
自己を相対化できないという事は、自分を一己の人間として位置づけられない事を意味する。

同一性というのは、全体との一体感であるが誤解してはならないのは、個々の部分は個々の部分の個性や主体性を保ちながら全体との一体性を保つという事である。

個々の主体性や個性を尊重性を保ちながら全体の統一性を保つという事は、個々の主体性を超越したところに存在する、個々の個性を超越した存在を想定する以外克服する術かありません。

個としての自分を世界全体の中に位置づけようとしたら個としての自分と全体的な世界とを貫く何者かの存在を前提とせざるをえなくなる。

これは社会も同じである。民主主義も、自由主義も、科学も価値観の多様性を前提として成り立っている。価値観の多様性を前提とした場合、特定の価値観、または、個人を唯一絶対な事とすることはできなくなる。
また、一人ひとりの個性が違う事を前提としている限り、現実的に統一的な概念、思想、価値観で統制する事は、理屈の上からもできない。

そうなると常に全体と部分とを調和させ統一する何らかの存在や象徴がなければ全体は全体として維持する事ができなくなる。
だから、民主主義や自由主義、科学は神を前提とせざるをえなくなるのである。

全体を統一するためには、個々の部分を越え全体を統一する何者かの存在を想定しなければならなくなる。
それが神なのです。


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