神について思う

私は、神を否定する必要性を感じない。



最近の映画や文学、芸術などを見ていると、神を愚弄したり、否定するような作品をよく見る。

私は、神を否定する必要性を感じない。
確かに、人間が想像したり作り出した神を否定するというのは、否定したりはしない。
しかし、それは、人間が作り出した神であってそれが気に入らないからと言って神そのものを否定するのはお門違いである。
人間が勝手に神の事を決めつけ、思いを巡らすのは勝手だが、それで神を愚弄されたら神もいい迷惑である。

自分の事を勝手に周囲の人が自分とは関係のないところでああだこうだと決めつけ、それを言いふらされたら誰だって腹を立てるだろう。
ただ、神は何を言われたって沈黙をされている。反論するわけではない。
それをいい事に自分たちの勝手な思いや決めごと、更には悪行を神の性にしたのでは、人間の悪行が収まりようがない。

神とは、無縁なところで神の事を噂し、挙句に神を信じないなんて愚かな事である。

人間が神だと思い込んでいる存在が不完全だとして神を否定する理由にはならない。

また、この世が自分の思い通りにならないからと言って神に腹を立て、神を否定する気にはなれない。

科学技術が発展し、それまでできなかったことができる様になったからと言って、それまで分からなかった事がわかるようになったからと言って、それまで見えなかったことが見えるようになったからと言って神を否定する意味を見いだせない。
そんなことで神を否定したら、それは単なる人の傲慢さゆえである。
人は、人、神は神なのである。

人の罪は人の罪である。

私は、神の絶対性、純粋性を前提としている。

絶対なる存在、純粋なる存在を否定する必然性を私は痛痒とも感じないのである。
神は、人の都合や思惑ではなんともできない。

神を人の思惑や自分の都合で利用しようとすることは神を侮辱する事である。
最も、許されない罪である。

私は、誰が何と言おうと人知を超えたところに、神の絶対性や純粋性を求める。
神を信じぬものが科学を語る事がいかに恐ろしいか。
それは、近代戦争を見ればわかる。

人が生み出した神の像がいかに不完全で相対的だからと言って神を愚弄するのは、人の勝手である。
だから、私は、この様に善が行われていないからと言って神を否定する事を正当化する考えに同調するわけにはいかない。

この世の愚かしさゆえに、なおいっそう神の絶対性を求めるのである。

故に、私は、人々が信じてきた神が自分たちにとって不都合になったからと言って絶対なる存在、神を否定する必要性を感じない。

イエスは、十字架にかけられてもなお神を信じ続けたのである。



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