神について思う

一粒の種


私は、現代は結果ばかりを追い求めているように思えてならないのです。
しかし、本当に大切なのは、結果ではなく動機にあります。
いかに生きるか、あるべき姿とは何か。

そして、私は、その動機の根源を突き詰め至ったのが神と自己の関係です。
注意してほしいのは、神と人との関係ではなく。神と自己との関係です。

人というのは、主体性がありません。自己とは主体です。
己(おのれ)です。志すところを定める事が可能です。

ですから、神と人との関係ではなく。神と自己の関係です。
自己には、一般性がありません。
あくまでも個としての存在でしかありません。

私は、欧米思想には、自己が欠如し、東洋思想には、神の概念が欠如していると考えています。
それが、現代社会の歪を生んでいるのだというのが私の結論です。

私は、現代社会の問題は、神と自己との関係の歪みから生じていると考えています。
神を敬い、自己を確立する。

西洋思想と東洋思想を一体化し、一粒の種とする。

人の世は、今のままでいけば大変な惨禍に見舞われると考えます。それこそ、人類の存亡をかけた。
戦争、貧困、人口問題、資源、飢餓、差別、環境問題、温暖化、大恐慌、ハイパーインフレ、大虐殺、テロ、革命、クーデター等。これらの問題の根源は、人間が自ら撒いた種にあると私は考えます。

これらの惨禍を克服するためには、神と自己との関係を健全化するしかない。

人の罪は、神に背いた事による、神から離れた分別です。神を怖れぬ傲慢さこそが人の罪なのです。
それ故に、人は、自らが蒔いた種によって惨禍に合うのです。

神を敬い、自己を確立し、正しい分別を身につけた時、人の魂は浄化され、救済されるのです。
正しい分別は無垢なる魂によってもたらされます。

神が唯一絶対なのに対して、自己にも唯一絶対性があります。
この事によって神と自己との間に対称性が生じるのです。
唯一、絶対性があるのは、人ではなく自己です。
神の唯一性と絶対性の対極に自己の唯一性と絶対性があります。そこに神と自己との対称性があります。
ただ、自己の唯一性と絶対性は、神の唯一絶対性に依拠し、保証されている。それが神と自己の関係だと思うのです。

人は、神の前に無力です。

もし神が唯一絶対な存在だとするなら、あらゆる宗教の壁も、民族の壁も、思想の壁も、人種の壁も取り除かれます。
人は、神の前に平等なのです。
大統領も、将軍も、英雄も、富豪も、聖職者も、独裁者も、障害者も、美人も、醜女も、労働者も、敗者も、勝者も、皆、神の前では一己の自己に過ぎません。

無垢なる魂だけが社会を浄化できるのです。

そこで私は、二十歳の時、自己と神とを定義し、それから、四十年間、思索を積み重ねてきました。

そして、私は、一粒の種になれればいいと思っています。

神と自己との関係の歪みによって現代人は、結果的に格差や差別を生みだし、憎しみ合い、争いあっています。

神を侮る事で、自分のあるべき姿を、人間は見失っているのだと私は思います。

経済の根本は、都市計画にあると思います。それは、人々の生活、生き様、あるべき姿から求められるべきなのです。都市は、人々が生きる空間なのです。
現代の東京は、結果的なできた都市です。かつての都市のように、あるべき姿から作られた都市ではありません。
あるべき姿とは、神と自己との関係によって生み出されるのだと思います。
神と自己との関係の歪がこの世の罪を生み出しているのです。



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