神について思う

異端と正統


自分で自分を異端だとする者はいない。

何を異端とし、何を正当化というのは、その人自身の問題ですね。

僕は、神と人とが対峙した時、無理に何者かに合わせようとする必要はないと思います。
素直に考え率直に振る舞えばいい事で、異端か正統かの議論は、自分の信じる事か否かの問題に過ぎないと考えています。
まっすぐに神を見つめる事ができれば自ずと明らかになると・・・・。
自分と神との関係によって異端か正統かが問題なるのです。
モルモン教徒から見ればカソリックは異端なのでしょうし、カソリックから見ればプロテスタントも異端なのでしょう。
だとしたら真実は自分と神との間にしかないと言う事です。
なぜなら、理解できるのは、自分の立場、立ち位置だけだからです。
あなただってあなたを批判する者の目から見れば異端なのでしょうし、あなたから見れば彼らの方が異端なのです。
しかし、あなたはあなたの立場でしか判断できないのですから。
相手があなたをどう考えているかなんて突き詰めれば関係ない。
イエスは、ユダヤ教徒から見れば異端なのであり、それ十字架に架けられた。違いますか。
キリスト教徒から見ればユダヤは異端で弾圧をした。
だからあなたにとって異端なものは異端なのです。
だとしたらあなたがどこまで許せるかの問題に過ぎなくなってしまう。

相手が許せなければ相手が異端か正統かに関わりなく許せないでしょうし、
あなたが許せるならば相手が異端か正統かにかかわらず許せるでしょう。

結局のところ異端か正統かはその人の考え方で決まるのであり、神とは無縁なのです。
神と自己との一対一の関係においては、異端も正統もなく、神に対する誠(まこと)、忠信しかないのです。
信仰は、自己と神との問題以外のなにものでもないからである。

他の人の信仰をとやかく言って仕方がない。
聖職者でも背信があれば許されないし、罪人でも自分の罪を認め悔い改めれば許される。
信仰は、一人ひとりの心の問題です。
誰が異端で、誰が正統かなんて差別する事自体神への背信です。

僕にとって神は唯一絶対なる存在なので、キリスト教の神、イスラム教の神、ヒンズーの神なんて区分できる神は存在しないのです。
唯一の神を信じる者にとって神は神でしかないのです。
そして、唯一絶対な神を信じる者にとって神とただ一対一に向かい合う事しか意味がないのです。
誰々の神、これこれの神ということ自体神の絶対性を否定する事なのです。

神は、超越的存在です。
人知を越えた存在。分別の外にある存在。絶対的存在。
神は、唯一の存在。自分も唯一の存在。
信仰の本質は他者から伺い知る事のできない事象なのです。

信仰には異端も正統もない。
ただ、神に対する真(まこと)だけです。

他の人の信仰を疑る者は、自分の信仰を疑られるだけです。
他人の信仰を疑る前に、自分の信仰の誠を尽くすべくなのです。

人間の世界の決め事に背く事が真の罪なのではない。
神との約束、契約に背く事が真の罪なのである。
人の世では人の世の法に裁かれる。
しかし、信仰の世界では、神との契約によって裁かれる。
憎しみを是とする者は憎しみによって裁かれ、愛を是とする者は愛によって裁かれる。
テロ、恐怖を是とする者は恐怖によって裁かれ、争いを是とする者は争いによって裁かれる。
欲望や快楽を是とする者は、欲望や快楽によって裁かれ、妬みや嫉妬を是とする者は、妬みや嫉妬によって裁かれる。
金にとりつかれた物は金によって裁かれる。地位や名誉にとりつかれた者は、地位や名誉によって裁かれる。
求めよ、さらば与えられる。悪しき事も善き事も。
善を求める者は善く事によって応えられ、悪を求める者は、悪の報いを与えられる。
憎しみを是とするか、愛を是とするか、それこそが、神との魂の約束、契約なのです。






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