2013年10月23日 11:07:32

神について思う

人は金や権力で堕落する。



人は、金によって堕落する。
それは、金が悪いわけではない。
金の誘惑に負ける人間が悪いのだ。

現代社会では、金は、生きていく上で必要不可欠な大切な物である事は間違いない。
ただ、金は金である。金儲けは手段であっても目的にはならない。

日本人は、金に潔癖でありたいという傾向がある。
その為に、金を賤しんだり、軽んじたりする。金は、卑しい物であり、汚い物とする性癖がある。
その一方で拝金主義的な所もある。多くの人は金に対して矛盾した感情を持っている。
その結果、金に対して異常に潔癖になったり、無防備になったりする。
潔癖な癖に、余りに金に対して無防備だから、金に対して野放図になったり、或いは、金の事で騙されやすくもなる。そして、一度、金の事で道を踏み外すと金に対してかえってだらしなくなる。
金にだらしなくなれば、生き方もだらしなくなり、倫理観も失う。そして、堕落していく。
人を堕落させるのは、大金ではなく。小銭である事が多い。
最初は、返せばいいと思って出来心で自分の小遣い銭の範囲で金をちょろまかす。
それが段々大きくなり、最後には、一生かかっても返せない金になってしまう。
そうなると倫理観までおかしくなる。だから、人を狂わせるのは、金か女かと言われるのである。

人は権力によって堕落する。
権力の本質は暴力である。だから、権力を分割させ相互牽制によって権力の暴力性を抑制しようとするのである。
権力には、無条件に人を従わせる力がある。
権力者は圧倒的な力を背景にして人を支配する。
故に、権力者は、自制が求められる。
権力者に自制心がなくなれば、圧政が生まれ、戦争が起きる。
人は、環境状況によって変わるのである。特に、人は、力を持つと変わるのである。

人は金や権力によって堕落する。故に、放置すれば、賄賂や賄、贈賄が横行するのは世の常である。
多くの官僚や政治家は、志を持っている。
賄賂や贈賄に塗れた政治家や官僚でもはじめから新年もなく政治や官僚を志したわけではない。
金や権力の魔力に取り憑かれて堕落したのである。

それでなくとも現代社会では金にならないことは尊ばれない。

現代社会では、哲学などマクドナルドのハンバーガーか吉野家の牛丼程の価値もない。
要するに、貨幣価値はないのである。
金にならないと妻子に馬鹿にされても仕方がない。
今の世の中に聖人がいたとしても乞食か、ホームレスぐらいにしか見えまい。
そして、現代社会は、彼等を本当に乞食扱いしてしまうのである。
そして、無責任な発言を繰り返しているコメディアンをオピニオンリーダーにしてしまう。

どんな人格者よりも金儲けの上手な者が賞揚されるのである。
現代の言論人にとって大事なのは、何が書かれているかではなくて、どれだけ売れるかなのである。

現代人は、洒落や冗談が解らないと言って洒落や冗談を洒落でなくしてしまったいる。
言論の自由と猥褻の問題をすり替えてしまう様な事を平気でしている。
その結果、言論の自由が矮小化され、挙げ句に、言論の自由の本質が失われている。

道徳的に問題だとされた映画がヒットしたと言って正当化してしまう。別に金が儲かるかったから正しいとは限らないのに、何でもかんでも売れたら正しいとしている。
世の中、金、金、金である。そのくせ、妙に金に対して格好をつけている。これも侍商法の悪癖である。
金儲けが何で悪い。金儲けが悪いのではない。
しかし、金儲けのために何でもかんでも行為が正当化される事はない。
人を殺したり、傷つけたり、脅したり、騙したりしたら、それは犯罪である。
洒落や冗談ではない。

人が信じている神をやたらに侮辱するのも許される事ではない。
それは言論の自由とは相容れない。

権力は、力である。しかし、権力があって社会の秩序が守られているのも事実だ。
現代の言論人の多くは、檻に入っている虎をからかって俺は勇気があると気取っているようなものである。
檻の中に入っていって虎と向き合っているわけではない。
むろん、虎の檻には入り込むことが勇気があるというわけではないが・・・。
ただ、愛する者が野生の虎に襲われたら、身を呈して愛する者を守る気概こそ真の勇気である。

相手を誹謗中傷した時、相手が自分の名誉を守ってくれないと訴えるのはお門違いである。
相手が自分を攻撃してくることを覚悟するのは当然である。
その上での言論の自由である。
相手の理性を当てにして自由というのは勝手すぎる。
言うのは自由かもしれないが、相手が怒って理性を失うことも覚悟せねばならない。

安全な所にいて反体制を気取ってみても大義があるとはいえない。
そういう人間にかぎって体制が本性を現すと阿(おもね)るものである。
体制を批判すると言う事は、それ自体命がけである。
反戦であろうと、戦争支持であろうと、全ての国民が熱狂して我を忘れている時に、自分の信念に基づいて行動できてこそ始めて言論の自由と言える。
皆が反対しているから自分もしよう。反対のために反対するのでは、真の言論とはいえない。
それでは余りに自分がない。

イエスは、石を投げられ、十字架に架けられても自らの信仰を護ったのである。
だからこそ、言論の自由は、キリスト教国から生まれた。
彼こそが言論の自由の生みの親である。

権力者が自制できない体制は、暴虐となる。
権力者が自制心を失うと権力は暴走する。
暴走する権力は容易くは止められない。

日本人や中国人の様な多神教とは、人倫によって自分を律しようとする。しかし、人倫は人と人との約束事に過ぎない。人と人との関係が信頼によって成り立っていれば保てるが、一度、人と人との信頼関係が失われれば、忽ちのうちに人倫は崩壊する。
人と人との関係は所詮相対的なのである。
だから人は、絶対的神を必要とするのだ。
絶対神に対する告白、懺悔、改悛があるから人は救われる。神の救済がなければ人は許されないのである。救済がないから自分を保つ事も出来ない。

信仰によってのみ人は安心立命の境地に達しうるのである。




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