2013年10月23日 11:07:32

神について思う

負の存在



金は、負の存在である。
勘違いしないで欲しい。
負だから悪いと言っているのではない。
金は、負の空間にあると言っているのである。

負の存在というのは、目に見える存在ではない。
手で触れる事も出来ない。
匂いをかぐ事も出来ない存在。
金はそういう存在だと言いたいのである。

負の存在は、観念上にある存在であって実体があるわけではない。

負の存在であるお金の性格を端的に表しているのは借金である。
紙幣は、元々、借用書や預かり証が変じた物である。

借金をしたとしても借金という物があるわけではない。
確かに、借用証のような物があったとしてもそれは借金をした相手が持っているのであって当人の手元にあるわけではない。借金というのは目に見える物ではないのである。
それが悪いのかもしれない。
借金をしてもなかなか借金をしているという実感が持てない。今日のように自動振り込みが浸透していると月々の返済額が自動に差し引かれていく。そんな感じである。
しかし、約定を違えると俄然表に現れてくる。
自分が大切にしていた物や財産が差し押さえられたり、借金取りに追い回されて生活が滅茶苦茶になったり、働けなくなったり、家族がバラバラになったり、最悪な時は、命まで奪い取られる。
借金の恐ろしさを思い知らされる。
しかし、きちんきちんと約定通り返済されていれば何ら問題はないのである。
そして、現代社会では、借金は生活の一部になっている。
期日が来れば口座から返済額が差っ引かれる。
所得から借金の返済額が差し引かれた金が手取りである。
言い換えれば、自分の自由になる金は手取りしかない。
つまり、借金した部分は自分の自由にならなくなるのである。
負とはそういう事である。
これは個人に限らず会社だって国だって同様である。
借金が増えれば段々に自由がきかなくなる。
借金の行動の範囲が制約されるようになるのである。
負とはそういう事である。

百円と言っても百円という実体があるわけではない。
百円という価値は物と物との関係、物と人との関係で決まる。
百円という実体はない。
実体のない価値を実体がないままに、目に見えるようにしたのが貨幣である。
故に、貨幣に求められるのは働きだけである。
お金はあるだけでは効用を発揮しない。使う事、即ち、なくなる事で効用を発揮する。
つまり、お金を役立てようとすればするほど、お金はいつの間にか消えていくのである。だから、負の存在なのである。
金を儲けても、金を儲けるだけでは空しくなる。

お金は空なのである。実体はない。
実体は、この世の出来事である。
生きる事に実体があるのであり、金儲けには実体はない。
ただ、この世の出来事を投影し、見えない力で、人々の位置と運動と関係を秩序づける働きがお金にはある。
このお金の働きを理解しないと人間は金の持つ見えない力で支配されてしまう。
それが負の力の怖さである。
注意しないと、気がつかないうちに人は、金に操られるようになってしまうのである。

この世の出来事は、お金にしてしまうと空である。
お金で、人生を知る事は出来ない。
ただ空の働きを知れば、この世の事象の位置と運動と関係を理解する事が出来る。
人の世は法と縁と識によって動かされている。

言うなればお金の価値は、色即是空、空即是色。
お金の裏には同じだけの借金が隠されている。
お札は、元々、国の借用証書、預かり証なのである。
国が潰れればお金も忽ち無価値になる。
お金で買える実体が色ならば、お金は空なのである。

現代人は、お金でしか人の一生を測る術を知らないのだ。
親孝行だとか、年寄りをいたわるとか、思いやりとか、愛情なんて一文にもならない。
だから、親孝行なんて何の価値もない事になる。それに変わって、財産とか、所得とか、保険金などが価値を持つ。
結果、独居老人だの、孤独だの、高齢者倒産だの、年寄り相手の詐欺みたいな事が起こる。
高齢者問題は、介護制度か、介護施設の問題に限られてしまう。
親孝行なんて問題にもならない。
これは意識のなせる業(わざ)である。

お金からその人の一生が見えてくるわけではない。

人は、負というと何か悪い事のように捉える。負というと、消極的とか、否定的とか、減じるという意味に捉えがちである。
しかし、負というのは、正の対極にある働きを意味するので、善悪とか、是非とは無縁である。

負の空間は、人の意識が作り出した空間である。
負の空間は、人の心の中ある。
負の空間は、目に見えない空間である。
負の空間の有り様は、人の意識の有り様で決まるのである。
負の空間を悪くするのは人の心である。

金を儲けるために生きる事は空しい。
愛する人が居るから、生きる事は、家族となって実体を持つ。
金でしか生きる事が測れなくなれば、女房と娼婦との見境もなくなる。
愛なのか、金なのかそれを決めるのは人である。

負の事を知るためには、負の対極にある実体を知らなければならない。

愛は空しい。愛は、愛する事によって実体を持つ。
愛する人を抱擁し、愛する子を抱きしめた時に愛は、実現する。
愛されたい、愛されたいとばかり、愛を求めれば、愛は空しい。愛は実体を失う。

どれほど多くの人を愛したところで、己に実がなければ、愛は空しくなるばかり。
愛すれば愛するほど相手を傷つけ、自らも傷つく。
愛は負なのである。
愛が悪いのではない。愛を忘れるから悪いのである。

死も又負である。
愛と死は、根本で繋がっている。
それは、生きる事によって実体を持つからである。

神も、又、負である。
神の存在は、我々には見えない。
神に触れることも、いだくことも出来ない。
しかし、我々は常に神の気配を感じて生きている。
神は、働きである。
神は愛であり、死を司る存在である。
我々が生きる事によって神は実現している。

力も、又、負である。
力は、働きである。

時も又負である。
時も働きである。

愛と死。
昼と夜。
覚醒している時と睡眠している時。

自分の人生があってお金がある。
人は金儲けをするために生きているわけではない。
生きる為に金儲けをするのである。
金儲けだけを意識したら生きる事は空しくなる。

己は空しい。
生きようとして生きる時、己は己としての実を持つ。

思い出してみよう。幼い頃の事を・・・。
幸せだった頃の事を・・・。
愛し合った時の事を・・・。
人生の真実は、生き様にある。
どれだけ儲けて、どれだけの資産をの事ではない。
本当の遺産は、残された人々の記憶にあるのであって遺した物にあるわけではない。

人は、この世に生まれた時に多くの人に借りをする。
生まれた時に両親に借りをつくり、愛する事で、愛する人に借りをつくる。
人生は、その借りを返し続けるようなものである。
人々への借りを返しつつ己に実を持たせるからこそ、人は、生きられるのである。
だとしたら、借金が悪いのではない。借金がある事を忘れるから悪いのである。

借金の本質を知り、借金と上手くつきあう事、それが経済なのである。

色即是空。空即是色。

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