神について思う

なぜ、生きているのですか。


なぜ、歌を歌うの。
誰も、聞いてくれない、誰も、聞くはずのない歌を、なぜ、歌うの。

アフターヌーンコンサート、六十歳からの歌手達と銘打った音楽会に母が出演した。
母は、今年、八十四歳になる。
六十歳からと銘打ってはいるが母は、八十を過ぎてから健康にいいと習い始めたのである。
出演する母よりも、こちらの方が気を揉んでしまう。
母が出ると言う事で、古くからの知り合いが大勢来てくれた。
中には、半世紀以上も長いおつきあいをしてきた方もいる。
半世紀は並大抵の時間の流れではない。一つの歴史だと言っても過言ではない。
考えてみれば人には人それぞれの歴史がある。
女どうしの友情というのは、男には窺い知れない部分がある。
男は友と言えば片付いてしまうところがあるが、女どうしというのは、そう簡単に割り切れない部分があるような思える。友情という以前のもっと濃密な情というか、いろいろと複雑な思いが絡み合っているように思える。
兎に角、学校の事とか、夫の事、舅、姑の事から、仕事の苦労。愚痴や泣き言。やっかみや僻みまで。
女どうしというのは、そんな誰にも話せない事、言っても仕方がない事の一切合切を、ただ世間話と長い間語り合ってきた蓄積がある。長いつきあいと言う何気ない日常が、人間関係のドロドロとした処まで溶鉱炉で溶かし、突き抜け、澄み切って、時間も空間も飛び越えてしまうような関係にまで高めてしまう。
だから、女どうしが、長い間培ってきた友情というのは、男が言う友人関係などという次元を超え、恩讐を乗り越え感情の奥深いところで、友と言うより、親子兄弟よりも強い絆、情念で結びついているように思える。
女どうしは、遭えばワァーと言って笑いながら抱き合い、男は、ヨオといて手を上げてはにかむ。
母に「おばさんとは長いつきあいだね」と尋ねたら。母は「そうね」と微笑んだ。
母は、遠路から来た友の前で、まるで小娘のようにはにかんだ様子で、精一杯誇らしげに歌ってみせた。
きっと遠くから来た友の為に、今を生きている自分を見せたくて、自分のあらん限りの力を出し切り歌ったのだと思う。
歌は歌うのです。
自分の思いを歌うのです。誰かに聞かせようと言うより、自分の思いに酔い痴れ、陶酔して歌うのです。
自分の思いが純化した時、上手いとか下手とかなんてどうでもよくなって自分の世界の入っていってしまう。
歌を歌えば今という時が消え失せ、永遠の時間が蘇ってくる。若い頃の記憶をたどって友との想い出の時に沈殿していくのです。友と出会い、泣いたり笑ったりした頃の事。でもそんな記憶もどこかに消えうせ、ただ二人だけでいるかのように、時は過ぎていく。
だから、母は、おばさんとの想い出の歌を歌ったのだと思います。それはいつか一緒に歌いたいと思い続けていた歌を歌ったのだと思います。それで、母が若やいでいたようにみえました。
「又、いつ会えるかしら。」と母は遠い方を見つめながら呟くように言いました。
母にとってそれは何よりも掛け替えのない一時だったのだと思う。
輝きだったのだと思う。

なぜ歌を歌うのでしょう。
誰も聞かない。
誰も聞くはずのない歌をなぜ歌うのでしょう。

なぜ、生きているのか。
それは、神の問いかけである。
それは、人には切ない問いである。
なぜ、生きるのか。
老いて、一人、薄暗い部屋でぼんやりしている時など、
なぜ、生きているのかと問う事は虚しい。
しかし、問わずにはいられない。
神は同じように人に問う。
なぜ生きているのかと・・・。
その時、私は、思う。なぜ生かされているのかと・・・。
老いて尚、幸せになる為に、人は生かされているのです。
年老いても、嗚呼、幸せだと思う一時はある。
昇る太陽だけが美しいのではない。
沈み行く夕日を見る為に、人は集まるのです。
太陽は最後の輝きまで美しい。
盛りの太陽は眩しすぎて正視に耐えないけれど、沈み行く太陽は、人を暖かく包み込んでくれる。
どんな時にも、幸せになる事を諦めてはならない。
総ての希望が断たれ、夢が潰えたとしても
一人取り残されたとしても、
幸せになる事を諦めてはならない。
それが神の意志なのだから。
人は神の祝福を得てこの世に生まれたのである。
神は幸せになる事を望んで居られる。
だから、神は、我々に問うのである。
なぜ生きているのかと・・・。
それは神の問いである。
だから私は自分に問うのです。
なぜ生かされているのかと・・・。
幸せになる事を諦めてはいけない。
それが神の意志なのだから。
幸せになる事を諦めたら、神の意志に背く事なのです。
命ある限り、幸せになる事を諦めてはいけない。
暗闇で、一人、道に迷ったらならば、神に向かって手を伸ばすのです。
神は常に手の届くところに居られるのです。
詩は作るものではない。吐き出す事である。
詩は呟きであり、語るものなのです。
詩を書くとは、綺麗な物も汚い物も腹の底にある物の一切合切を血を吐くようにして吐き出す事なのです。
吐き出してしまえば綺麗も汚いもない。
悲しみも怒りもない。
あるのは純粋な自分の思いの固まりすぎない。
詩は魂の叫びなのです。
なぜ、生きるのか。
老いたからこそ尚自分に問う。
なぜ生きるのかと・・・。


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