2013年8月11日

神について思う

神と科学


多くの人は、宗教を非科学的なものと決めつけている。
しかし、宗教は必ずしも非科学的なものではない。
むしろ、宗教によって科学の進歩は促進されたという側面を持っている。
好例が、天文学や数学である。
数学と宗教は密接な関わりがある。

本来、宗教とは科学的な事である。

ところが現代では、宗教は、非科学的で不合理なものだという認識が一般に流布している。
宗教は、科学が取り扱わない事象を取り扱っていると思い込まれている。多くの人達は、宗教は科学とは無縁なと課題を扱っている思っているのである。
宗教というと、ホラーや怪奇現象、オカルト、死後の世界、霊的な世界のような非日常的で不条理な現象に関する事のように思われている。
しかし、宗教というのは、日常的な細々とした行いの規範となる部分を提供している。生活していく上の基本となる礼儀や作法の根源である。
ところが、多くの人は、宗教を日常生活からかけ離れたところで捉えている。

それが、宗教とは迷信であり、非科学的な事だという偏見を植え付けているのである。
宗教が扱うのは、奇蹟や秘蹟ばかりではない。むしろ、それは例外的なことである。
奇蹟と言っても、海を裂いたり、星を動かすと言ったことを指すのではない。
子が決まった時間の昇り又沈むような、我々がごく当たり前のように考えていることの方が、余程、奇蹟なのである。
第一、真の奇蹟は、生命の神秘に隠されている。
人は生まれて死んでいく。これ程の奇蹟はないのである。
だから、仏教の主要なテーマは生・病・老・死にある。
ところが、人々の多くは、宗教的な出来事は、非日常的で、特殊な出来事のように感じている。
そして、科学と宗教は対立しているかのように捉えている。
科学と宗教は背反的なことだと思い込んでいるのである。

それは、一つは、宗教が絶対的存在を基として論理を組み立てているのにに対し、科学が、相対的認識を基として論理を組み立てているからである。
そのために、宗教は直感的認識を重んじ、科学は、実証を重んじるからである。
宗教ではある物はあるのに対し、科学では、ある物は、なぜ、どの様にしてあるのかが問題なのである。

実力は、自己に属し、運は、神に帰す。
人事を尽くして、神に運を託す。
実力だけで成功するとは限らないし、運だけでは、成功はできない。
人間にできることは、努力である。
しかし、最後の成否を握っているのは、運である。
だから、人間は最後には神頼みになる。
神頼りをするのはいいけれど、責任をとらされるのは自分だという事を忘れてはならない。

神は存在にあり、自己は、認識によって意識を形成する。
現実は、物の世界の出来事、理想は事の世界の出来事である。
理想がなければ、現実を超えられないが、
理想だけでは、幸せを実現できない。
現象は物の世界の出来事であり、理論は、事の世界の出来事である。
理論がなければ、法則は見いだせないが、理論だけでは、法則を実証することはできない。
それが科学である。

人は、とかく、神の物を欲しがる癖に、自分の事に頓着しない。
神の物は、神の下に、人の事は人のところに返せ。

存在は絶対的であり、認識は相対的である。
絶対的存在は、神の側の問題であり、相対的認識は自己の側の問題である。
存在と認識は、二律背反の関係ではなく。補完関係にある。
神と自己は、対立関係にあるのではなく。補完関係にあるのである。

宗教的な出来事というと、現代では、超常現象、超自然現象のような出来事を思い浮かばれがちだが、宗教的な出来事というのは、本来、日常的な出来事や自然な出来事が中心なのである。細々とした日常の些細なところでこそ宗教の本領は発揮されるのである。

空飛ぶ円盤とか、雪男とかの話題、除霊などといった話になると、宗教にすぐに結びつけられる。実際、怪しげな新興宗教は、怪異現象や怪奇現象の話を何かとしたがる。
しかし、この手の話は、宗教とは無縁な話が多いのである。
むしろ、神に結びつけて怪しげな話で人を誑かそうとされたら、疑ってかかった方が良い。
信仰心がある者なら、神を怪しげな話に安易に結びつけたりはしないものである。
信仰心が篤い者程、科学的な発想をするものである。
神を信じるからこそ、絶対的で唯一の存在を信じるからこそ、相対的な認識が可能となるのである。

宗教的見方と科学的見方は矛盾するどころか重なり合う、或いは、補完し合うところが多いのである。

科学が物の世界の出来事ならば、宗教は事の世界の出来事である。
科学が自己の意識の外にある対象を取り扱っているのに対して宗教は、自己の内面にあることを取り扱っている。

真理は神の側にあり、法則や理論は、人の側の問題である。
神は絶対な存在であり、科学は相対的な認識である。

科学者は神と向き合うことで科学を探究することができる。
神への怖れを抱かない者は、科学者には向いていない。
なぜならば、絶対なる存在と対峙することによってのみ相対性の意味を知ることができるのである。
まだ、自己を超越した存在を信じることによってのみ、自己の限界を克服することか可能となるのである。

解ったと思った瞬間から真理から遠ざかる。
神は人智を超えたところに存在している。
ピタゴラスは、この世は数の調和によって成り立っていると解釈した。
しかし、無理数や無限によってこの解釈は無残にも打ち壊されたのである。
近代科学も又しかりである。
科学は、真理を探究できても、解明はできない。

人は、神を受け入れる必要がある。
神は絶対なる存在である。しかし、人の認識は相対的なのである。
神は、無分別な存在である。分別は、人の側にある。
神は無意味である。意味は人の側にある。
神に名はない。名は人が付ける事である。
人は、神を超えられない。

神に対する怖れをなくした科学者は、相対的な存在を絶対視し、自然に対する畏敬心を失う。
又、自己を絶対視することに対して自制心を失う。

その結果、科学技術を絶対視して、大気汚染、河川の汚染、海洋汚染、乱開発、温暖化といった環境破壊を引き起こし、核兵器、生物化学兵器といった絶滅兵器を生み出しても恥じることがない。
又、己(おのれ)を抑えきれずに、欲望に魂を売り渡し、金の手先となって景気や経済を暴走させる。

かつて、山の民は、木を伐る時、神に祈りを捧げ、赦しを請う。しかし、今は、金の為ならば神木をも枯らす。
乱獲によって多くの種が絶滅の危機に瀕している。

神には限りがなく、人には限りがある。
真理には限りがなく、科学には限界がある。
それが大前提なのである。

絶対的認識は神の認識である。人の認識は相対的なものである。

科学を絶対視した時、人は滅びへの道を歩み出すのである。

神を怖れぬものに科学を探究する資格はない。



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