2013年7月30日

神について思う

なぜ、現代人は、神について
真面目な議論を避けるのだろうか



今の日本では、神について真面目な議論なんてできはしない。
神などと言うと変人か、頭がおかしいのか、あるいは、怪しげな新興宗教に凝っているという様な目で見られてしまうのがオチである。
挙げ句に、霊感商法か何かで怪しげなものを売りつけられたり、マインドコントロールをされてしまうのではないのかと警戒されてしまう。

神などと言うと警戒し、変人奇人扱いするくせに、日本人は、何かあると、すぐに、神頼みである。

正月の初詣には、大勢の人間が徹夜してまで参拝するし、試験が近づくと合格祈願に殺到する。
結婚式は、最近は人前結婚式が流行だしたとは言え。まだまだ、神前や教会が主流である。
大体、結婚式ぐらい神の前で誓いを立てたいと思うものだ。
結婚前なら、良縁を願い。妊娠したら、安産祈願。
子供ができたら、お七夜、初宮参り、お食い初めと、人生の岐路に立たされると神様にお参りに行く。

週刊誌や雑誌、テレビは、占いが好きである。これまた何かというと占い、占い。
占いに関する記事のない週刊誌を見つけるのに苦労する。
その占いの根拠も、また、神通力、神意である。
子供の名前を決めるのも、家を建てる時も、結婚をする時も、恋人を決める時も、旅行に行くのも、それこそ、今日一日の運勢を決めるのも占い。つまりは神意で決めている。

それなのに、神について話し合おうとするととたんに、迷信だとか、非科学的だとか言われて変人奇人扱いされてしまう。最悪な場合は犯罪者のような扱いを受ける。

大衆が求めているのは、結局、神に求めるのは、現世利益でしかない。
御利益のない神様には様はない。
宝くじや博打をする前は、神様にお願いに行く。
神前に祈るのは、家内安全、商売繁盛、大願成就である。
願い事がなければ神様に用はない。
ひどい場合、宗教はお呪(まじな)いか加持祈祷のような類いだとしか思っていない。
だから、新興宗教というのは、怪しげな祈祷師か、神憑りしたシャーマンのような教祖に支配されてしまう。
そういう点で言えば、怪しげな新興宗教が蔓延るのは、信じる方にも責任がないわけではない。

だから、神などと言うと穿った目で見られるのも無理はない。

神などと言うと変な目で見られる。
しかし、たいていの人は神に対して具体的なイメージを持っているわけではない。ただ漠然とした神に対する何らかの思いを持っているのに過ぎない。誰も神の実像について明確な確信を持っているわけではない。
実際のところ、殆どの人が神について何も知らないのである。
それなのに、神について勝手な妄想を抱いて、短絡的に迷信だの、気の迷いだの、非科学的だの、不合理だと決めつけるているのである。

現代人は、神に対して自分達の勝手な思い込みによって決めつけをしすぎる。
これといった根拠のない先入観や偏見による自分勝手な決めつけで宗教を捉えている。それでは、神の本質についてまともな議論も、自由な討論もできるはずがない。
最初から神の考え方は歪んでいて、しかも、それぞれが持つ神に対する考え方がてんでんバラバラだから、最初から議論が噛み合わないのである。
それで神を否定しても意味がない。

神に対する考え方というのは、いろいろあるのである。
自然や天のように非人格神的な対象を指す者もあれば、人格神を指す場合もある。
働きのようなものを指す場合もある。
ところが、自分達が思い描く神に対して明らかにしないままに、てんでんバラバラに自分の思い描く神を前提にして議論を進めている。これでは、神についてまともな議論ができるはずがないのである。

人々の議論は漠然とした神に対する妄想に基づいているに過ぎない。

そして、今、宗教という言葉から連想されるのは、例えば、反社会的な狂信者集団や、或いは、霊感商法のような悪徳商法みたいなものである。 或いは、得体の知れない奇妙な教義を頂いたカルト集団と言った類いなのである。
いずれにしても、余りいいイメージではない。
そう言った宗教に対するマイナスのイメージは、一部の宗教団体が引き起こした事件によって宗教全体に対する妄想が植え付けられた結果である。

中には、淫らで、いかがわしい、怪しいカルトもある。
カルトというと淫祠邪教というのが通り相場になってしまった。

更に、洗脳という問題もある。
新興宗教に入信すると洗脳されるのではないかという恐怖もある。
事実、人の弱みにつけ込み、足下を見て、或いは、洗脳して、自分の思うが儘に操ろうとする新興宗教は数多くある。
神をダシにして、自分の欲望を満たそうとする、卑猥で、下品の集団というイメージがいつの間にか定着してしまった。
又は、占いや預言のような似非超能力、霊能者、いずれにしても、俗っぽい事柄ばかりである。

宗教というと祟りやホラー、オカルト、怪談と結びつけられ、聖職者の仕事は除霊のようなことだと思い込んでいる人すらいる。
また、信じる側も、宗教というと透視だの、予言のようなものだと思い込んでいて、お願い事をした事が実現されないと神を呪ったりもする。それは、信じた側の問題でもある。神を信じて騙されたというのは、自分の都合でしかない。信じる側も心を病んでいるのである。

世間を騒がすのは、宗教法人というのは名ばかりで、大体が、欲惚けをしたペテン師集団である。
しかし、こんな集団は、本当の意味の宗教団体なんかではない。
これは歴とした犯罪組織である。宗教の対極にある集団である。

神は、この様な団体や集団とは、無縁なのである。

しかし、無縁な存在と言ったところで、人々は信じない。
第一、おかしな団体が神についていい加減なことを触れ回っているのに、神について真面目に論じている者がいないのである。
神についてまともな議論をする者がいないのだから、世間を騒がせている宗教団体が全ての宗教を代表しているように思われても仕方がない。
神について何も知らない者が、神というのは、怪しげなものだと誤解したとしても無理はない。
しかも、知識人と称する連中の多くは、無神論者で、神など迷信だ非科学的で不合理な存在だと決めつけている。知識人にある種の権威を見いだす者は、彼等の言辞を信じてしまう。
その結果、宗教というのは、現代ではこの様にいかがわしく、怪しいものだという認識が広まってしまった。

宗教団体なんてペテン師、詐欺師集団。
神の如く君臨し、振る舞う教祖。
そして、洗脳。洗脳。洗脳。

違う違う。

本当の聖職者は人格者であり、常識人である。
異常者ではない。
何の変哲もない、穏やかで気さくで、物静かな人である。不器用で、飾りのない、そしてすこし、恥ずかしがり屋な人である。純真で、純朴、嘘のない人柄でなければ悔い改めることはできない。

淫らで、いかがわしいカルトや反社会的な集団しか宗教として考えられない、それは、現代社会が病んでいる証拠である。

また、その一方で、既存の宗教の聖職者、主として仏教の僧侶だが、葬式や結婚式場、お墓の営業マンのようにしか見えない。
つまり、普通の企業のサラリーマンでしかない。
後は観光業である。
およそ聖職者には思えない。
聖職者にある者が、自殺をしたり、贅沢な生活をしたり、金儲けに勤しんだり。
副業ばかりに熱心だったり、あげくは、風俗通いや遊興に明け暮れている。
商売。商売。
どう見ても、修行者、修験者には見えない。
昔は、聖職者は禁欲的で清貧という印象があるが、今は金の亡者にしか見えない。
事実、何処の宗派の聖職者も妻帯しているし、食事に制限があるわけではない。
厳しい戒律を守る者などいはしない。
しかも、殆どが世襲であって、何らかの修行によって得られた職ではない。
資格だって、形ばかりの修行をして得た資格である。
そこいらの八百屋や魚屋と変わらないのである。
変わらないどころか、坊主丸儲けで、税金も払っていない。
酒でも、肉でも飲み放題、食べ放題。
およそ、神聖とか聖者、修行者、修道者というイメージからかけ離れている。
一体どんな修行をしているのか、してきたのかと疑りたくなる。

しかも、宗教ビジネスが盛んだという事になる。
一等地をしめているのが宗教法人の建物で会ったり、
観光地の利権を争って醜い争いをしていたりする。

不景気だというのに、ゴルフ場では僧侶が溢れている。
風俗街で御乱行をしている。
根本道場で麻薬が見つかった宗派すらある。

神も仏もあったものではない。
教義は、自分達の行動を正当化するぐらいにしか役に立っていない。

しかし、人生を考える上で神は、重要なテーマである。
信じる信じないは、別にしても真面目に語り合うべきなのである。
なぜなら、神を信じるか否かは、道徳の問題に直結しているからである。
ユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒からすれば、神を信じない者を信じることはできないという程重要な問題なのである。

日本人は、世界中の人は、無神論者だと錯覚している部分がある。
だから、他の国の人達が拘(こだわ)っている事や大切にしている物の意味がわからないのである。
それを簡単に迷信と片付けてしまう。だから日本人は嫌われるのである。

例えば、食事や衣装である。
又、風俗習慣である。
イスラム教徒の子供の頭を平気で撫でたりもする。
無神経にヒンズー教徒にビーフカレーを出したり、イスラム教徒にトンカツを振る舞ったりもする。
要するに独りよがりなのである。

神がどの様な意味を持つのか、真剣に考えないと日本は、世界で孤立することになる。

神についてまともな議論ができないからおかしなカルト教団がはびこるのである。

多くの新興宗教は、神が主役でなく、教祖が神になってしまっている。

人は、神と対峙することで、自分達の倫理観、道徳を形成した。
又、社会の仕組みや制度の根本理念を作り上げてきた。
そして、経済の有り様や日常の行動規範も洗練してきたのである。
だから、神は、日常生活の隅々にまで行き渡っていた。

今でも、イスラム教では金利が禁止されている。

確かに、それが、近代化の障害にもなった。
どれだけ多くの科学者、哲学者が宗教によって裁かれたか。
しかし、それは人の問題であって神の問題ではない。

私の父は、春には、神の前に詣でて、新たな年の抱負を神に明らかにし家族の絆を確認した。

秋には、その年の収穫に感謝を捧げ、お祭りをした。
それは自然に対する畏敬心から発した祈りでもある。

今は、単に、祭りの形だけが残り、神の恵みへの感謝の心は失われた。
祭りと言えば、敬虔さは失われ、ただ、どんちゃん騒ぎをするだけである。
今の祭りは、金儲けが目的なのである。
つまり、「お金」の為の祭りなのである。

今は、神に感謝を祈りを捧げるのではなく、金に感謝をし、祈りを捧げるようになった。
だから、金銭的利益を先にして、人の生活を後回しにするようになったのである。
その結果、不景気になると平然と人を解雇することができるような世界になったのである。
解雇された人間が生活に困ってもそんなことはどうでも良いのである。
人情なんて無縁な世界であり、義理人情など滑稽でしかない。
今の世で一番大切なのは金儲けである。
今の世で一番大切なのは、人ではない。
一番が金で、二番が物、そして、最後に人なのである。

だから悪徳がはびこる。
どんな不道徳な行為も金儲けの為なら許される。
金さえあれば何でもできる。
金儲けの為なら何でもできる。
金の為なら魂だって売り渡す。
そうしなければ、今の経済では生き残れないのである。
金儲けの為なら、家族も犠牲にする。
公共の利益を犠牲にし、友を裏切り、親や子を売り、年寄りを騙しても金儲けをした者が栄光を得るのである。
市場は、競争の場であり、闘争の場でしかない。
助け合い、分かち合い事は許されないのである。
このまま放置すれば、自由主義経済は、破綻する。
金に支配されてしまったからである。

相手の生活を考えずに、解雇できるのは、金だからである。
仲間が困っている時、収穫や獲物だったら分かち合うことができる。
しかし、金の世は、所詮、金の世である。
金のない者は、助けようがないのである。

最初は、金ではない、金の為に働いているわけではないと言っていても、金になると解れば、いずれは、金儲けの手段になってしまう。
本来、奉仕の意味が強い仕事でも一度、金儲けの手段になったら、金に支配されてしまう。
神に仕える仕事でも、商売の種になる。そして、費用が問題となる。
料理も、掃除も、育児も、年寄りの世話も外注化され、金儲けの手段となってしまうのである。
母親の味なるものが消え失せてしまう。労働の質が変わってしまうのである。

金は人をも変えてしまう。
人をただの物にしてしまう。
だから、金の世では一番大切なのは金で、次に物で、一番、粗略に扱われるのは人である。
金のない人は、ゴミであり、厄介な代物なのである。
物があっても分かち合う心がない。
思いやりなんて、今の経済には、金儲けの手段以上の意味はない。
心なんて必要ないのである。
だから人々は心を病むのである。

本来、社会は、助け合い、分かち合うことによって成り立っていた。
社会がより洗練され、組織化された形態が会社である。
形態は、洗練化され、組織化されたかもしれないが、助け合い、分かち合う気持ちがなくなってしまった。
結局、経済で一番大切なのは、利益である。
利益を得る為に合理化し、人件費を減らせば、社会全体の効用、所得は減少する。
回り回って景気は悪化するのである。
今の経済には、神が不在である。
経済の根本は、神の恵みに感謝し、助け合い、分かち合うことにある。

生産と分配と支出が均衡しなければ、経済は良くならないのである。

今の世は、勉強だって根本は金儲けにある。
だから学歴なのである。
学歴も学問にあるわけではない。
塾に家庭教師、試験の為の投資である。
学問に対する興味など意味を持たない。
学問に対する興味が意味を持たないのだから、学歴も意味はない。
ただ、金儲けの為の道具に過ぎない。

かつて、学問の中心は神学にあった。
それが間違った方向に行った為に近代化が遅れた。
しかし、それは人間が犯した過ちであり、その責任を神に問うのはおかしい。
学問とは、本来、神と対峙することにある。

結婚に際しては、永遠の愛を神に誓ったのである。
今、一番効力を持つのは婚姻届であり、結婚式は二の次になってしまった。
結婚の意義は、欲望と経済的理由だけである。
金が目的で結婚するのなら、結婚生活は保てない。
愛情が失せてしまうからである。
家族を通して神と対峙するから、愛は成就するのである。

死に際しては、神に許しを請うた。
現代では、遺体は、物でしかない。
死は生物学的な現象の一つでしかない。
命や魂について議論する事は余計な事なのである。
だから、老人介護も育児も単に金銭的、物質的問題であって道徳や倫理の問題ではないのである。
制度や設備を整えれば事足りるのであり、親子の問題は、些末な問題にしか過ぎない。
魂の救済なんて馬鹿げた事なのである。
だから魂は癒やされる事がない。

神とは何かを議論することは、自分の人生を語ることである。
神を話す事は、自分を生かす存在について極めることなのである。
自分がどの様に生きていくかを真摯に語り合うことなのである。
生病老死について考える事は、生きることの意味を探求することである。
自分の両親や祖父、祖母について考える事でもある。
戦争の是非について論じることでもある。
愛する事の意味、信じることの大切さを再確認することでもある。
何が善で何が悪かを確認することでもある。
理想や夢の本源を知ることでもある。

だから、神について間違った認識を持つことは、自分人生だけでなく、自分の親や家族の人生までねじ曲げてしまうことにもなるのである。

説教くさいとか、抹香臭いとか、教訓くさい、辛気くさい、陰気だというのは、本当の神について真面目に考えていない証拠である。
神について語り合うことは、楽しいことなのである。
昔は、長老や年寄りが昔話をしてくれた。
昔話の多くは、神や精霊、或いは悪霊の話である。
童話だって元は訓話である。
長老や年寄りは、面白可笑しく神の話をしてくれたのである。
それを集大成したのが神話である。

神について考えたり、神に接する事は、基本的に祭りなのである。
自分も喜び、神も喜ばす事なのである。
だから、祭りには、歌も踊りも付きものなのである。
真剣に歌い、踊る。
そこから文化や芸術が発達した。
芸術は、本来、神を描く事から端を発したとも言える。

又、祭りには、出会いがある。
神は、男と女の出会いを取り持ってきたのである。
だからこそ、男と女は神の前で結婚式を挙げるのである。

楽しい時、悲しい時、困った時、助けて欲しい時、人々は神に祈ったのである。
うれしい時は、神に報告したのである。
約束は、神に誓って守ったのである。
だから、神を信じない者の約束や契約は信憑性を疑られるのである。

神とは、身近な存在なのである。
食事の仕方。服装。言葉遣い。親や身内との関係。口の利き方。朝晩のお勤め。お祈りの仕方。男と女のつきあい方。結婚の仕方。病気の原因。治療方法。田植えの仕方。収穫の仕方。お祭り。埋葬の方法。してはならないこと。行ってはならない場所。人の裁き。全て、神にお伺いを立てて決めてきたのである。
ずっと神は、人の傍らに居られた。

神について語り合う事は、生活の仕方を語り合う事でもある。
人としての生き方について語り合う事でもある。

寺子屋というように昔は、教育は専ら宗教団体がしていたのである。
落語や漫才、浄瑠璃、義太夫、浪花節、演歌、能、狂言、歌舞伎、おとぎ話、講話、法話も、元を正せば宗教である。

ただかといって、面白ければ良い、楽しければ良いと言うのと訳が違う。
それが遊興と違うところである。
神の話は、生きることそのものに深く関わっているのである。
人生いかに生きるべきか。
人を愛するとはどんなことか。
神について話をする事は、話の奥が深いのである。
だからこそ、延々と語り継がれてきたのである。

ところが今は、内容のある話ができなくなってしまった。
表に現れた上っ面の事しか話せない。
人間の罪や罰について、赦しについて、譽れについて、話せないのである。
それは神が不在だからである。

科学を信仰の対極、或いは、背反的な事柄だと誤解している人が多くいる。
それは、錯覚である。
科学的なことは、非宗教的で、宗教的なことは迷信だと決めつけている。
極端な場合、宗教的なことは非科学的なことであり、科学的なことは非宗教的なことだと思い込んでいる節がある。
それこそ、神などと言うとなんて非科学的なことを言うのだろうと言われてしまう。
逆に、神の摂理と科学の法則は対立しているように捉えている人もいる。
事実、過去には多くの科学者が魔女狩りや宗教裁判の犠牲になり、悲惨な最期を遂げている。
しかし、それも神とは無関係のことである。
かつての聖職者が偏見や先入観に囚われて神の名の下に犯した過ちである。
その反動で、科学を宗教と対立したものとして考える風潮が生まれたのかもしれない。
しかし、魔女狩りや宗教裁判の犠牲になった人達は不信心者だったかというと必ずしもそうではない。むしろ信仰心の篤い人々が多く居たのである。
過去の科学者の多くは神を否定してはいない。
むしろ、自然の神秘を知れば知る程、神への信仰を篤くしているのである。
科学は、神と無縁なのだろうか。
そうではない、科学こそ神との関係抜きに考えられるものではない。
神に対する怖れ、自己を超越した存在への怖れがない者が科学を探究することは、この世の全てを否定することになりかねない。
相対的認識は絶対的存在の上に成り立っている。
相対的認識を絶対視することは危険である。
不完全なものを完全なものとし、完全な存在を不完全なものと錯誤してしまうからである。
科学者こそ、自然や神に対して謙虚であらねばならない。
自然や神に対して科学者が傲慢になった時、人間は、危機的な状況におかれることになる。
人は、全知全能の神にはなれないのである。
人が自らを神のごとき完全無欠な存在だと思い込んだ時、第二、第三の魔女狩りや宗教裁判が起こるのである。
自然法則を探求しようと思う者は、神に対して謙虚でなければならない。
それが自然の神秘なのである。
自然を解明したと思った時から破滅は始まるのである。
人は、神にはなれない。
魔女狩りや宗教裁判を行ったのは、神ではない。人である。

神は超人的な存在である。しかし、それは人智を超えたという意味で超人的なのである。
神話に出てくる神や漫画に出てくるスーパーヒーローのように超人的なのではない。

神の予言だのお告げだのをああだこうだ議論することを神について語ることだと思い込んでいる人達がいる。それが、神を怪しげな存在にしてしまっているのである。

神の啓示とは、兆しである。

例えば、津波、温暖化、地震と言った天変地異の背後には何が存在するのか。
戦争や革命、暴動と言った争いを引き起こす原因は何なのか。
恐慌やインフレ、貧困や差別といった人の世の問題である。
恐慌やインフレ、貧困、差別は自然界には存在しない。
ではなぜ人の世に恐慌やインフレ、貧困、差別が蔓延るのか。
環境破壊、原発事故は何が原因で起こり、なぜなくならないのか。
現象として現れた兆しについて語り合う事こそ神について語る事なのである。

神について語るというのは、現れた兆しの意味することを話し合うことなのである。

神に答えを求めても神は沈黙する。
神はお示しになっているだけである。
それが神の啓示である。
だから、我々の眼前に現れた兆しについて語り合うことこそ神について語ることなのである。

もっと神について真面目に真摯に語り合えるようにしなければならない。そうしなければ人の心の弱みにつけ込むようなカルト集団の出現は防げない。
現代人の多くは、心を病んでいるのである。

なぜ、現代人は、心を病むのか。

神は人々の心を通して現れる。
人の心を借りて現れる。

現代人が心を病む原因こそ兆しであり、神の啓示なのである。

神を考える事は経済を考えることでもある。

経済は、分かち合い、助け合うことが根本なのである。
それを今の市場経済では、競争し、争うことだと教える。
馬鹿げている。それでは、社会や国を建設する意味がない。
社会や国の仕組みは、分かち合い、助け合うことを目的としたものなのである。

競争、競争とただ争いを煽っても経済は良くならない。
競争に求められるのは、節度ある競争、公正な競争である。
人と戦車が競っても人が負けるのは、必然的結果である。
人が弱いのではない。
不公正な競争を強いられただけである。
無慈悲である。

神を中心とした生活では、経済は、神の恵みを分かち合うことにあった。
ところが今は金が中心である。
収穫や獲物だからこそ分かち合うことができた。
金銭的利益だから分かち合うことができないのである。
神の恵みを分かち合うことを忘れて、金が全てになってしまった。

神の予言だのお告げだのをああだこうだ議論することを<神について語ることだと勘違いしている人が沢山いる。
その様な、神のお告げとか、予言が神を怪しげな存在にしてしまっている。

神の啓示とは、兆しである。

神について語るというのは、現れた兆しの意味することを話し合うことなのである。

津波、温暖化、地震と言った天変地異の背後には何が存在し、何を教えようとしているのか。
戦争や革命、暴動と言った争い。
恐慌やインフレ、貧困や差別といった人の世の問題。
環境破壊、原発事故。
これらが、兆しである。これが神の啓示である。
答えは人間が出さなければならない。
神はお示しになった。答えは人が出すのである。
人が出した結果によって人は報いを受けるのである。

神に答えを求めても神は沈黙する。神はお示しになっているだけである。それが神の啓示である。
だから、我々の眼前に現れた兆しについて語り合うことこそ神について語ることなのである。
生きるという事、死ぬという事、その意味について皆、真面目に話し合ってきたのである。
科学がいくら発達しても死んだらどうなるか、まで解明できるわけではない。
最初から科学は、そのような問題を除外しているのである。
神について真面目に話ができなければ、人生について語り合うことはできないのである。

神について真摯に語り合えなければ、人間は、自分達の運命を切り開くことはできない。
この世を救えるのは神しかいない。

人は神にはなれない。
人は神を超えられない。
なぜならば、人には限りがあるが、神には限りがないからである。

神について、もっと真摯に話し合うべきなのである。

神よ。蘇れ。

TOP         Contents         NEXT


このホームページはリンク・フリーです
Since 2013.7.30
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.


Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano