2013年7月26日 11:07:32

神について思う

神と自己


神と自己は、今と言う時点において、絶対的で唯一の存在である。

そして、神と自己とは一対一の関係にある。

それならば、自己とは、何か。
まず第一に、自己とは、すべての存在の前提だと言うことである。
第二に、自己は、唯一な存在、絶対な存在である。
第三に、自己は、存在それ自体である。
第四に、自己は、独立し完結した存在だと言う事。つまり、自己は、それ自体で存在している。
第五に、、自己は、自己の唯一の体現体だと言う事。つまり、自己を、体現できるのは、自己だけなのである。
第六に、自己は、主体であるという事。認識主体だと言う事。
また、第七に、自己は、今しか存在しない。
第八に、自己は、霊的な存在である。
第九に、自己は、間接的、認識対象だと言う事である。

自己の存在を証明するのは働きである。言い換えると自己は働きだと言える。

自己の働きには、第一に、認識のはたき、第二に、意識の働き、知識の働き、第三に感情の働き、第四に、意志の働き、第五に、心の働き、第六に、欲望の働き、第七に、論理の働き、第八に、フィードバックの働き。第九に、肉体の働きがある。

第一の、認識の働きは、視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚の五感によって為される。
第二の、意識の働きは、認識によって得られた情報を分類し、再統合する過程で形成される。
第三に感情の働きは、喜怒哀楽、好き、嫌い、恐怖、驚愕、苛立ち、和み、癒やし、愛着、親近感、信頼、甘え、無視、逃避、脅迫、命令といった情動によって為される。
第四の、意志の働きは、決定や決断を促す働きである。
第五の、心の働きは、情動によって形成される愛憎怨恨と言った働きである。
第六の、欲望の働きは、生物として生きる為に必要な働きである。
第七の論理の働きは、推定したり、分析したり、判断する為の順番や手順、基準、前提、条件付け等を形成する働きである。
第八のフィードバックの働きは、外部に対する働きかけに対する外部の反応を取り込んでいく働きである。
第九の肉体の働きは、自己を外部に表出する為の働きである。

自己の外側に広がっているのが物の世界である。自己の内側に形成されるのは、事の世界である。

認識は、好奇心、興味から始まる。

認識は、意識を深める働きがあり、意識は、判断基準、行動規範や価値観、倫理観の基となる。
認識が意識に昇華する過程で論理的働きは定型化され、認識によって得られた情報は、知識へと発展する。
論理は、判断を標準化する働きがある。

自己以外の認識は、直接的な手段によって為される。
それに対して自己認識は、一旦、外に自分を投影し、自己を客体化する事によって為される。

相手の欠点や過ちに気がつくという事は、自分の内面にもそれに呼応する要素が隠されている。
つまり、同質の欠点や経験がある場合が多い。
人を責める前に自らを省みよ。
他人を通じて自分を知るのである。

感情は、自己の内面を外部に表出する行為である。
感情は、肉体を通して言葉、表情、仕草、動作、態度といった行為によって外に表現される。
中には、暴力と言った強い表現もある。
感情表現には、基本的に、笑う、泣く、怒鳴る、罵る、喚く、叫ぶ、目をそむける、苛立つ、逃げる、飛び上がる、暴れる、脅すといった行動によって外へ表出される。
無視や沈黙、無表情も感情表現の一種である。
感情表現は、一般、特定の対象に向かって表出される。
外に向かって感情が表現されると、行為として表現された感情を自己も認識して自己の内面を知る。
外に向かって表出された感情表現によって外部の対象も自己も自分の意志を確認し、確定する。
それをいったお終いよという事にもなる。
感情によって表現されるのは、基本的に攻撃と防御、又は、受容と拒否であり、具体的には、反抗、逃避、受容、承諾、合意、決意、無視、脅迫、威圧、焦り等がある。

感情は、決断を促す働きがある。
感情は、結果や現象のように表面に表れた事象に対する働きを言う。
原因に対する感情は結果に対する感情から生じる。
感情の中で喜びや怒りは能動的な働きをする。悲しみや楽しみは、受動的な働きをする。
また、喜びや楽しみは肯定的な働きをし、怒りや悲しみは、否定的な働きをする。
感情の能動的な働きは決断を促し、受動的な働きは、決断を抑制し、鈍らせる。

感情は、意識を高揚させる働きがあり、論理は、意識を鎮める働きがある。

決断を促すのは、理性ではなく、感情なのである。即ち、決断力は、心の有り様で決まるのである。

決断とは、決して断じる事である。
一つの事に定めて他の事を切り捨てる。
それが決断である。
決断とは、一つの事を選択する事である。
なぜ、一つの事なのかというと自分は一人しかいないからである。
人生も一つなのである。

学校の試験問題のように答えが一つならば、決断は必要としない。
しかし、実際の社会は、答えが一つという事はまずない。
幾つもの答えの中から、一つのことを選ばなければならない。
また、現実の世の中は、推測や推定に基づいて、物事を決めなければならない。
確実な事ならば、これも決断はいらない。
未来は、不確実で曖昧模糊としているから決断する必要があるのである。

だからこそ、決断は感情によって促されるのである。

意志の働きは、決断の方向性を定め、安定させる働きをする。
意志は、善に対する志向である。
善は自己善である。
勇気は、意志より発する。

心は、感情の多様性を制御する。
心は、感情を一定化し、定着させる。
嫌悪や苦痛、恐怖は、嫌悪感を抱かせたり苦痛を与える対象に対する憎しみとなる。
和みや癒やし、親近感、信頼感は、愛着となり愛情へと発展する。
愛情は、甘えによって表現される。

心は、空想や想像の根源である。
心は、記憶や思い出の収納庫である。

判断は、人の意見を聞いて、決断は自分の力でする。

判断は論理的にされ、決断は感情的にされる。

論理的働きを最も純化した体系が数学的体系である。
論理は知識を体系化する。

決断は、行為として外部に表現され、内と外に働きかける。
行為は、自己の外部と内部に対して同時に作用する。
自己の内面と外界に対する働きかけは、内面と外界に対して作用反作用の関係を生じさせる。
自己の行為による外界の変化と内部の変化は、経験となる。
経験は、外的事象として認識される。経験は、内部にフィードバックされ、意識に蓄積される。

内面と外界との働きかけは、例えば、引力と斥力の関係のように正と負の働きによって均衡させようとする。それは、引力と斥力の関係のようにてある。
反発や反抗は、自己の自立的行動の表れである。

自己は、肉体を通して、一旦、外へ投げ出される。
自己は、外へ表現されることによって認識対象となる。
自己の姿は、鏡に映されて認識対象となる。
自己は、鏡に映された自分の姿を見て、自分の肉体の形を知る。

感情も行為として外部に表現される。
表現されることで、自己の心の動きを明らかにすることができる。

心を作り上げるのは、自分の思いなのである。
思いが強すぎると心の働きが負担となる事がある。
心は、行動を制御する働きがあるからである。

思いはその時々に感情として表出される。

自分の思いは、自己の内面に発生する。
思いは無形である。
故に、思いは外部に向かって行為として表される事によって対象化される。
行動は、経験として心の奥底にしまい込まれる。
思いは感情として表現される。

人間は、自分の心の動きも外に映さないと理解できない。
特に、言葉が重要な働きをする。
言葉は、自分の行為に意味づけする。
文章は、さらに自分の思いを心に定着させる。
嘘でも、言葉に出したり、文章にすると真実のように思い込む危険性がある。
嘘も現実となる事がある。
歴史的記録は絶対ではない。
過去の記憶は、不確かなものである。
それを前提としなければ歴史の真実は理解できない。
多くの歴史は思い込みの産物なのである。

意味は、言葉によってもたらされる。

自分の愛情は、行為として相手に示され、行為として表れたメッセージに対する相手の反応によって意識に還元される。愛する事は、愛される事によって確認される。しかし、必ずしも自分のメッセージを相手が受容するとは限らない。そこに意識の複雑さがある。相手の反応によっては、愛に対する意識は形成されるのである。

自他の関係が意識を形成する上で重要な働きをする。

この自己の働きと外界の働きの相互作用が人間の社会と一人の人間の人生を作り上げていくのである。

恐怖は、恐怖を抱かされる対象に対して忌避、回避する行動を触発させる。
恐怖は時として怒りに転化する。

怒りは、怒りによって増幅され、悲しみによって抑制される。

怒りは、怒りの対象に対して攻撃的にさせる。

相手に怒る要素がないのに、相手が怒っているように感じるのは、相手に自分に怒りが反映されている事が原因している場合がある。
相手に投影されている自分の怒りを相手の怒りとして受けとめるのである。
相手が平静を装っている時には、相手の癇(かん)に障るようなことを言ったり、不快な行為をする事によって相手の怒りを誘発し、自分の怒りを相手に転移させる事もある。
相手に自分に怒りを転移させる事によって怒りを共有化するのである。
感情を共有化する事で共通の価値観や合意を形成し、また、感情を増幅する。
そして、心の底に植え付けるのである。

怒りを核とした集団が形成される事もある。
同様に、悲しみを核とした集団、喜びを核とした集団、癒やしを核とした集団を形成する事も可能である。
しかし、最も、激しい行動を誘発するのは、怒りを核とした集団である。
怒りは、時として社会を変革する為の原動力となるのである。

人と人との関わり合いの中で人は成長し、社会は発展していくのである。
この関係は、人間が生まれた時から構造的に設定されている。

人は、生まれたばかりの時は、一人では生きていけないようにできている。他人の力に依存しなければ生きていけない。他者に依存し、関わる事で、認識が深められていく。依存している対象から意識の原型が継承されていく。又、自分に必要な者や事は、好ましく、危険な物や事は、不快に感じるようにできている。

赤ん坊は、母親の注意を自分に向ける事に最大限の労力を使う。
自分に注意を向けさせる為の感情表出が外界への働きかけの第一歩となる。

自己は主体である。同時に間接的認識対象である。
この世で唯一直接見ることのできない顔は、自分の顔である。
鏡がなければ、自分の顔は見ることができない。
それなのに多くのことは、自分のことは自分が一番知っているつもりになっている。
この事が人間にいろいろな影響を与えているである。

しかし、自分の顔についているゴミは、人に指摘されないと気がつかないものなのである。

自分を直接知ることができない。
できないから自分対するいろいろな思い込みをさせるのである。
そして、自分の実像と自分が思い込んでいる自分の姿が極端に乖離した時、人間は、心の働きはおかしくなるのである。

先ず、素の自分を知り、自信を持って生きていくこと、それが幸せへの近道なのである。
そのために、神の力を人間は必要としている。
なぜならば、自分で自分を許すことが人間にはできないからである。
人間は神になれない。

生まれたばかりの赤ん坊にとって、母親は、神のごとき存在です。
子供は、母親の期待に応えようとして一生懸命になる。
母親の期待に応えられない時は、自分を責めるようになる。

その母親、ないし、母親に変わるべき存在が何らかの理由で不在だと子供の成育に重大に影響を与える。

人は、幼い頃に不幸な経験や愛情に恵まれないと自分が罪を犯したと受け取り、自分を罰し続ける事がある。

母親や父親が不在なのは、子供の罪ではない。
周囲の人間は、むしろ子供に同情的である。
しかし、当人は、それを罪だと受け止めている。
だから、子供が罪悪感で自分を責めていることに周囲の人間は気がつかない。
気がつかないで、親をかばえば、ますます子供は、自分が許せなくなる。
先ず、当人を罪悪感から解放することが先決なのである。

自分を許せなくなる事の中には、偶発的な出来事もある。
自分が故意にやったのではないが、自分の価値観からして許されない行為である。

自動車を運転する人は、いつ事故を起こすか解らない。
事故を起こせば、加害者となり、場合によっては、過失と言っても人を殺してしまうことさえありうる。
心、正しきもの程救いがなくなってしまう。

神に祈るしかない。

人の上に立つ者は、自分の判断を過てば、多くの部下や関係者を危険な状態に追い込むこともある。

先年の津波の際、親元に早く送り返そうとして、多くの園児を津波の犠牲にしてしまった保育園の園長の話があった。
この様な時に、当の園長が仕方がなかったではないかと自分で自分を許したら大事になる。

結局、この様な責任者は、自分で自分を許すことは許されない。
正しいと信じて決断した事やよかれと思ってした事が絶望的な結果をもたらす事はよくある。
その時、誰が許すというのだろうか。
罰する事のできる者はいても、許す事のできる者は、誰もいない。
許す者が誰もいないから、人は、悔い改める事ができずに、過ちを繰り返し、又、自分を正当化しようとする。

だから、人は神を必要とするのである。

経営者は、会社を良くしようとして投資をする。しかし、投資の結果は定かではない。
投資に失敗して会社を倒産させる事もままある。
誰がその責任を負うのか。
国家元首の決断一つで戦争になる事もある。
しかし、戦争の惨禍は国民が負うのである。

組織を構成する者が犯した過ちは、トップが罰したり、許したりすれば、許されるが、組織のトップを裁ける者はいない。だから法を定めるのである。しかし、法も絶対ではない。
だから、国家元首であろうと会社の社長であろうとトップに立つ者は、時として、狂うのである。指導者が狂えば、災いは、組織全体に及ぶ。
そのような狂気から身を守る為には神を受け入れるしかない。

自分を許す者がいないと気がついた時、頂点に立つ者は、神を受け入れるしかないのである。
逆に言えば、神を信じない者は、国家元首になるべきではない。

それでなくとも人間は、他の生き物を食べなければ生きていけないのである。
だから、キリスト教徒は食事をする前に神に祈るのだと思う。

子供が風邪を引いただけでも母親は自分を責めるものである。

一度、生まれれば、いつ死ぬのかは、解りません。親が先に逝くとは限らない。誰が先に逝くかは決まっているわけではないのである。
子に先立たれた親は、自分を責めるであろう。
しかし、それも又運命なのである。
自分を責めたところで、子供が生き返るわけでは。

自分を許すことである。
親には親の人生があり、子には子の人生がある。
長いか短いかの問題ではなく。
その人がその人らしい人生を送れたか、否かが、重要なのである。
この世に生を受けた者は全て、神の祝福によって生まれてきたのである。

自分を許す事ができなければ、親になる事もできない。

 もし、自己の心が分裂してしまったら、今の自分を直視させ、自分の主体性を取り戻させ、自分を許し、受け入れさせる。自分の価値観を修復し、自己の統一を計る事である。

 素の自分に立ち返って泣きたい時に泣き、.笑いたい時に笑えたら、自己の内面は統一されるのである。

神と自己が、絶対的で唯一の存在だという事を前提とし、神と自己が一対一の関係にあるという事は、自己が神を独占できるという事である。
神を独占できるとしたら素敵な事である。


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