2001年1月6日

神について思う

死後の世界を選ぶのは自分である。


平等とは何か。
平等に対する定義には、いろいろとある。

平等とは何か。

私は、平等について、死の前の平等と言う事を強く思う。
例えて言えば、どんなに成功した者も、
どんなに幼い者も、死を前にすると哲学的になるし、
一つの境地に達する。
そして、その境地は、あまり大差ないような気がする。
偉人と言われる者も死を前に乱れる人もいるし、
平凡な人が非凡な死に方をしたりもする。
最後には、帳尻が合うのである。

寿命と言う事もある。
善良であろうと、悪徳であろうと、
寿命とは関係ない。
悪逆非道な者でも、長寿を全うした者もいれば、
聖人であっても短命に終わる者もいる。
死という者の前では、時間すら無意味に思える。
つまりは、死は、平等に訪れるのである。

寿命は、その人その人に与えられた時間である。
それは、人生の長さである。
人の一生を与えられた時間で測るならば、
年齢の差ですら、
早く生まれたか、おそく生まれたに、過ぎなくなる。
事の正否・是非・善悪に、
老若・新旧・男女の別はないのである。

自分に残された時間を明らかにされたらどうであろう。
何を考え。何をするだろう。
それを考えると、神の前に平等であることを思い知らされる。
死刑囚と無期徒刑囚とでは、明らかに生き方に差がでると聞いた。
死という現実を前にすると自分の無力さを痛感させられる。

死は、一瞬にして時間を飛び越えさせたりもする。
一瞬にして過去の世界へ立ちかえらせ。
また、未来へと飛躍させる。
そして、時が止まる。
不変で、普遍。
今を生き。今、死んでいく。
人は、今という時間を普遍化して、不変化している。
明日は、どうなるか、誰にも解らないと言うのに・・・。
一寸先は闇。
若者は、老いを知らない。
ただ、若さに酔いしれている。

もし、死によって全てが灰燼に帰す。
無になるのならば、やりたいことをやればいい。
そう思っても不思議はない。
事実、そう言う刹那的な生き方を選んだ者も少なくない。

人類が滅亡するって、
でも、人間は、いつか死ぬのだ。
人類が滅亡しても、しなくても、
人間はいつか死ぬのだ。
死によって全てが清算されるとしたら、
人類が滅亡しようと、しまいと、
所詮は同じではないか

ニクソン大統領が、自分が失脚すると悟った時、
何度も、核のボタンを押しそうになったと言われている。
自分が破滅する時、
人類を巻き添えにしたいと考える者がいたとしても不思議はない。

ただ、神を信じなければ・・・。

物心ついた頃、私が一番、衝撃を受けたのは、

人間五十年
下天のうちを比ぶれば
夢幻の如くなり
一度生を享け
滅せぬもののあるべきか

死のうは一定(いちじょう)、
しのぶ草にはなにをしよぞ、
一定かたりをこすよの

と謡って乾坤一擲、桶狭間の戦に臨んだという生き方である。

その瞬間に、自分の全てをかける。
自分の命も、人生も、そして未来も、なにもかも、
その全てを擲(なげう)つ。
その凄まじさである。
これは、日本人の心のどこかにものすごい衝撃を与え。
いまだに影響しているのではと思う。

死と時間の関わりを考えてみるのは、面白い。
死後の世界の捉え方を見ると、
キリスト教的、直線的な時間があり、一方に、輪廻のような循環的な時間がある。
また、時間を連続したものと見るか、一瞬一瞬の積み重ねと見るか。
捉え方によっても生き様に差がでる。

信長のような生き方と時間。
つまり、時間を連続したものと見るのか、今という時間の集合体としてみるのか。
信長は、一刹那の集まりとして見ていた気する。
本能寺の変の時、信長は何を思ったのだろうか。

信長の一生は、宗教的と言うより哲学的だったような気がする。

前にも書いたが、戦争というのは、人間をものすごく
哲学的か、宗教的か、いずれかにする。

哲学は、思索的にするし、
宗教は、無条件にする。

ブッタは、死に対という欲望が人間にはあると言った。
ブッタは、欲には、
所謂(いわゆる)物欲と死にたくないと言う欲と、
そして、死にたいという三つの欲があるとした。

死にたいと思う。

生への執着と死への願望、それは、裏腹なのだ。

私は、死への逃避と言う事があると思う。
死によって現実の苦しみから開放されたい。
この世から、あの世に逃げ出したい。
また、死によって自分の存在そのものを清算したい。
忌まわしい過去と、これまで生きてきた軌跡を消し去りたい。
とにかく、何もかもから逃げ出したい。
死にたい。

死は全てを浄化してくれる。
もし、死後の世界がないとしたら、
何でも好き放題すればいいと考える輩がでてもおかしくない。
子供を殺戮した宅間が同じ様なことを言っていた。
死んでしまえば全ては無よと。
死によって全ての罪が清算されてしまうのなら、
どんな罪も犯せる。
ただ、ある意味で死そのものに対する恐怖からは逃れられないが、
死んでしまえばいいと思えば、それからも開放される。
でも、大多数の者は、なにか、そうとは思い切れない。
死後の世界に対する恐怖みたいなものがある。
それは、自分が死んだら、どうなるか、わからないが故の恐怖でもある。
それがあるが故に、モラルは保たれてきたし、
その闇の部分で文学は作られてきた。
その恐怖を科学が和らげしまっている。
科学というのは唯物主義だからである。
人間の死も確立統計でしかない。
それが人間のモラルを狂わせている。
だから私は、現代社会は、白日の文化だと、
全ての闇という闇を否定し、白日に曝す。
その為に世の中が砂漠化している。
闇もまた必要なのである。

死後の世界というのは、むしろ、生きている者にとって必要な世界な気がする。
そして、死後の世界によって、生きている者達の生き方が変わってくる。
と言うよりも死後の世界が現世を規定している。
あの世をどう思うかが、
生きている者達の生き様を決めている。
これがモラルの根本。これは、昔の人間の知恵なのである。
そのことによって死後の世界が意味を持つのだと・・・。
死んだ人間は、とにかく、死後の世界へ行ってしまったのであるから。
つまり、死後の世界を考えると言う事は、
自分がよりよい生き方を選択していることに相違ないのである。

闇の世界ってすごく楽しい。
実はロマンって闇、即ち、夜にある気がする。
なぜならば、闇って、謎だからである。
見えない世界。
空想の世界だからである。
見えない世界まで、見えたように言うから、おかしいくなる。

神話の世界を実在の世界と重ね合わせるからおかしいのである。
神話が科学的でないって・・・。
神話は、最初から、科学的ではない。
神話は、内面の世界である。
生まれる以前世界も・・・。
死後の世界も・・・。
宇宙の果ても・・・。
全て空想の世界の出来事なのである。
それは、ビックバンも同じ事である。
所詮、科学も空想の産物なのである。

科学者だって死後の世界がとうなっているか、わかりはしないのである。

結局、私は、死後の世界を選ぶのは自分なんだと思う。
そして、それによって自分の生き方を決めてしまう。
それが人間なのではないのか。

自分の生き方に対して、そして、死後の世界に対しても
つまりは信心に対して
今とても安易である。
無神論者的な生き方をしながら、
霊能力者を頼ったり、
自分の倫理はどうでもよくて、ただ、現世利益ばかりを神頼みする。
欲ボケしているだけである。所詮、そう言う輩は、神なんてどうでも良い。
ただ、自分が癒されたいとか、やりたいことがしたいと言うだけの理由。
信仰というのは、もっと鮮烈で、命懸けでするもの。
そして、死というのは、どうにもならない現実である。

つまりは、死によって覚悟させられることであり。
死によって覚悟することなのである。

死と対峙することで哲学はある。
ところが、現代人は、その辺をいつも誤魔化して、
科学的と称す。
わかったふうにして、
逃げ回っている癖に、いとも簡単に、
その辺の似非占い師や霊能力者に救いをもとめ、ころっと騙される。
彼等の求める救いとは、どんな救いなのかと思う。
でもやっぱりそれは、現代人が自ら選んでいるのである。
そのおどろおどろしい世界を・・・。
政治家だって、革命家だって、宗教家だって、哲学者だって、犯罪者も
彼等が選んでいるのである。
自分達の世界を・・・。
ただ、そのことに自分達で気が付いているかどうか。
覚悟できているのか。

死後の世界は誰にもわからないのである。
それなのに、無だと決め付けて良いのだろうか。

死後の世界というのは、今の自分を投影した世界だと私は、思う。
死後の世界が存在するか否かが問題なのではない。
今、今の自分にとって最善の生き方をしているかどうかが問題なのである。
今、最善な生き方をしていれば、死後のことで思い煩う必要はない。
今、生きていることの延長線上に死がある。
死後の世界を無駄と決めつけるのは、今の自分の生き方を無駄としてしまうのと同じ事なのである。
天国に行くか、地獄に行くかが問題なのではない。
この一瞬一瞬に悔いのない生き方をしているかどうかが問題なのである。

死後の世界がないからといって自堕落に生きる理由にはならない。
天国に行きたいから清い生き方をするというのもおかしい。
死後の世界は、生きているこの瞬間の裏側にあるのだ。
今を全力に生きるからこそ、死を乗り越えることができる。

今を生きなければならないのである。
今この時を、死んだのと同じような生き方をしていたら、死んだのも同然なのである。
生きながら、死んではいけない。
自分を殺すのは自分である。
今を生きるのだ。

死後の世界とは、自分の魂を反映した世界なのである。
内面の世界を映した世界なのである。

死後の世界をどう考えるかは、
その人自身の魂の救済の問題なのだ。
私は、街を歩いていると、
妖怪変化や亡者のごとき人々が徘徊しているように見えることがある。
これって妄想なのであろうか。



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