懺悔とは、自分自身に、自分自身が、向き合う事です。
懺悔の本質は、贖罪にあります。
罪の本源は、過ちです。
この過ちの根本が問題なのです。
過ちは、意識して犯すとは、かぎりません。
むしろ、知らず知らずに犯している過ち、無意識に犯した過ちの方がずっと多いのです。
また、嘘をつかなければ、相手を傷つけてしまうといった、悪いと知りながらも、自分ではどうしようもない過ち。やらなければ、殺されるといった具合に、脅迫や暴力、権力によって強制、強要されて仕方なく犯した過ち。
また、事故や過失のように、故意に犯した過ちでない過ち。
よかれと思ってやった事が、結果的に間違いだったとか、悪い結果を招いてしまったというような、その時点では正しいと思って犯した過ち。
今まであげた例のように、罪の根本の過ちというのは、結果的に過ちを犯してしまったという場合が多いのです。
しかし、過ちは、過ちとして、受け入れなければ、贖罪されることはありません。罪は、罪として残ってしまいます。
だからこそ、神に懺悔をして、許しを乞うのです。
だから、懺悔は、大変に大切なことです。

裁きが怖くて、許しを乞うのではありません。赦して欲しいから、許しを乞うのです。許してもらえなければ、変われないから許しを乞うのです。
それが懺悔です。
だから、懺悔をしたら変わらなければなりません。
本心から悔いて、自分を改めるのです。
本心から悔やんで、自分の行動を改めないのならば、それは、見せかけの懺悔にすぎません。

懺悔は、いい加減な気持ちでやってはなりません。
確かに、神は、いい加減な気持ちで、懺悔したとしても、裁いたり、罰したりはしません。
しかし、それでは、自分を許したことにはなりません。悔い改めて、はじめて、自分を許せるのです。
いい加減な気持ちで懺悔しても、いつまでも、心は晴れません。

懺悔のやり方にはいろいろあります。
心静かに、瞑想をするように、告白をするやり方。
自分に正直になり、自分を解放し、勘定をあからさまにして、素の自分を出すやり方。
前者が、静の懺悔なら、後者は動の懺悔です。

また、一人で壁に向かって告白をしたり、紙に書いて、その紙を燃やすやり方。
二人が、向かい合って、一人がもう一人に向かって告白するやり方。
何人かが、円陣になってするやり方。
ただ、複数でやる場合は、懺悔をする者の話を一方的に聞き、その場にいた人間以外には、口外してはなりません。

いずれにせよ、懺悔をするのは、自分の罪、汚れを清め、自分が出直すために行うのです。
つまり、懺悔とは、禊ぎです。





             
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