清潔そうな一人の青年が、ゆっくりと立ち上がると、その方に、
 私は、迷っています。何が、正しくて、何が、間違いなのか。
 時々、どういう生き方をしたらいいか。解らなくなってしまいます。
 正しい生き方とは何ですか。
 教えてください。
 とためらいがちにおずおずと聞いた。

 その方は、その青年の眼を優しくじっと見つめ、次のように、穏やかな声で、答えられた。

 正しい生き方というのは、難しいことではない。人として、当たり前なことを当たり前にすればいい。しかし、それが難しい。
 神は、本来どの様な生き方も許している。だから、どの生き方が正しくて、どの生き方が悪いとは言えない。ただ、それでは、どうしていいのかわからないというのも道理だ。だから、正しい生き方というのをあえて言えばこれから言う事かな。

 そういうと、少し小首を傾け、指を額にあてると、次のように言われた。

 正しい生き方とは、
 一、自分を、持ちなさい。
 一、自分の神を、持ちなさい。
 一、自分の身を、守りなさい。
 一、自分の神を、守りなさい。
 一、自分と自分の神を、否定してはなりません。自分と自分の神を、受け入れなさい。
 一、自分と自分の神を、信じなさい。
 一、自分の心の律法を、持ちなさい。そして、その律法を守りなさい。
 一、自分を、愛しなさい。そして、自分を、愛するように、人を愛しなさい。
 一、自分のために、そして、愛する者のために、自制しなさい。
 一、自分と自分の神を、欺いてはいけません。自分と自分の神に正直でいなさい。
 一、自分を、許しなさい。そして、人を許しなさい。
 一、自分を、傷つけてはなりません。自分を癒し。そして、自分を、癒すように人をいたわりなさい。
 一、自分を、殺してはならない。自分を、生かしなさい。そして、自分を生かすように人を生かしなさい。
 一、生命を大切にしなさい。自分の生命を、そして、生命ある物を大切にしなさい。
 一、自分の幸せを求めなさい。そして、万人の幸せを求めなさい。 

 正しい生き方とは、けして難しいことではない。ただ、それを実践することは難しい。しかし、過ちを犯したからといって怖れることはない。日々、その日の行いを反省し、もし、過ちがあれば、心から悔いて、神に祈り、懺悔をして、許しを請えばいいのである。

 人は、生きていく為には、多くの生き物を犠牲にしなければなりません。それが、神にあたえられた宿命なのです。殺生がいやだからといって、何も食べなければ、自分を殺すことなります。しかし、それが最大の罪です。だから、殺すなとはいえない。だからといって、むやみやたらに、殺生が、許されているわけではない。命をもてあそぶことは、神に対する最大の冒涜である。人は、生きるために、他の生き物を犠牲にしなければなりません。だから、食事をする前に祈り、感謝するのです。そして、生きるために、必要なもの以上のものを殺してはなりません。

 その青年は、今度は、ハッキリとそして、キッパリとした口調で言いました。
 正しい生き方は解りました。しかし、何を為すべきか、何を行うべきかが解りません。
 ただ生きるだけではなく、私は、正しい行いがしたいのです。
 正しい行いとは、どの様なことですか。


 それを聞いて、その方は、その青年の瞳を見つめ、次のように言われた。

 行いは、あなたの生きた証。あなたの生きる目的。とても大切なことです

 そういうと、その方は、中空をじっと見つめながら、腕を胸の前で広げ、いのるように次のように言われた。

 一,信じることに従って、自己を主張し、それを実践して、自己実現をはかる事。
 二、正義と名誉のために戦う事。
 三,愛する者を守る事。
 四,世のため、人のために働く事。
 五,弱者を保護し、いたわる事。
 六,人間としての義務を果たす事。
 七,家族を養う事。
 八,過ちをただす事。
 九,正しい教えを伝え、広める事。
 十、志をたて、志を同じくする者を助ける事。

 それを聞いて、青年は、たたみかけるように聞いた。

 自分の信念や信仰を守ろうとして、相手を傷つけてしまうことがあるかもしれません。それは、正しい在り方と矛盾してしまいます。その時は、どうすればいいのでしょうか。

 それを聞くとその方は、青年の方を見つめ直しながら、次のように答えられた。
 正しい行いを優先しなさい。なぜなら、正しい行いとは、自己実現の発揮だからです。正しい行いは、生きる目的、生きる証でからです。
 生き方と行い、どちらを、優先すべきかは、難しい問題です。
 どちらが、重要で、どちらが重要でないかではなく。あなたが、何を信じているかによるからです。結局、あなたが、信じているものによって、行いは決まるのです。
 何を信じるべきか。
 本質的には、神は、全てを許されているのである。ただ、その行いの報いは、自らが受けなければならない。つまり、あなたが信じているもの、それが、あなたの、神だからです。信じる事にしたがって為した行いが、生き方に反した時、その行いの報いは、甘んじて受けなければなりません。
 ただ、最も怖れなければならないのは、自分の為した行いによって、自分を失うことです。故に、自分の行いを正当化するために、自分の信念を曲げてはいけません。それは、自己否定につながるからです。神は、自己の延長線上に居られる。だから、自己を否定することは、神を否定することなのです。

 怖れなければならないのは、一時の感情や衝動、欲望によって自制心を失い、自らを見失うことです。怒り、哀しみ、嘆き、恨み、憎しみ、憎悪、復讐心、、妬み、虚栄心、見栄、嫉妬、欲望に身を委ねてはいけない。我を忘れ、身を滅ばすことになる。狂信も、また、自己否定である。

 清く、正しく、美しくありなさい。

 神は、何々をしては、ならないとか。これこれを、しなければならない、などと、いわれてはいない。

 愛人を持ってはならないとか。人を殺してはならないとか。人のものを盗んではならない。そんなことを、神はおしゃってはいない。それは、人の世の掟にすぎない。ただ、あなたが、人の世に生きている限り、人の世の定めによって裁かれる。だから、あなたの行いが、人の世の掟に従わなければ、迫害を受けるだけです。
 また、それを悪い事だと思うのは、あなたが、あなたの心の律法に、照らし合わせるからです。あなたの過ちは、あなたの心が生み出すのです。ならば、心の律法を、持たなければ何をしても許されるのか。律法を持たなければ、あなたの存在そのものが、許されません。問題なのは、世の中の掟と心の律法が反した時です。
 覚悟しなさい。その時こそ、あなたの心の有り様が問われるのです。
 迫害を受けることを怖れて、世の中の掟に従うべきか、心の律法に従って信じる道を進むか、それは、あなたの胸一つです。それは、あなたの心問題であり、人の世の都合の問題です。神の問題ではありません。
 ただ、最後には、あなたは、あなたの心の律法に従って裁かれるでしょう。それだけは忘れてはなりません。あなたの罪は、あなたに・・・。

 神は、あなたの心の律法に従い。あなたの信じるところに従って、生きなければならないように、されているだけです。

 神は、何か、申されたか。神は、何かを、約束されたか。神は、何も、申されてはいない。神は、何も、約束されてはいない。あたかも、神が、何かを、申され。何かを約束されたがごとく言う者がいる。そして、それを言葉にし、自らの教えに置き換えようとする者がいる。しかし、その言葉は、神から発せられた言葉ではない。人の言葉である。人が神の名の下に何かを言い。神の名の下に何かを約束したとしても、神がそれを守る義務はない。
 何を護るべきかは、あなたの問題です。神の問題ではありません。神は、あなたの律法、あなたの信じるところに従って生きるように。そして、その結果の報いは自分に帰すようにされているだけです。

 神の前においては、善霊も悪霊もない。なぜならば、神は、全てを超越した存在、すなわち、善も悪も超越した存在だからである。あるのは、そのもの自体の本性、あなた自身の本性だけである。
 あなたの人生は、あなたの本性によって祝福されもし、また、呪われ、報復もされるのである。

 一人の老婆が、立ち上がるとこう訴えた。
 私は、過ちばかりをしてきました。私は、多くの取り返しのつかない失敗をしました。今、考えると間違った考えに支配され、間違った神を信仰してきました。こんな私でも、神様は、お許しになるのでしょうか。
 それをお聞きになるとその方は、その老婆をいたわるように、こう言われた。

 神は、すべてをお許しになっている。許していないのは、あなたなのです。前非を悔いて、行いを改めれば、いつでも許されるのです。行いを改めるのに、早い遅いは、ありません。今すぐに改めなさい。そうすれば、たった今、許されるでしょう。ただ、言葉だけでなく、本心から行いを、改めなければ、いつまでも、許されることはありません。なぜなら、自分を欺くことはできないからです。自分を欺けば、欺くほど、その罪は深くなるのです。懺悔し、自らの間違った行いを恥じ、悔い改めなさい。そうすれば、あなたは、すでに許されているのです。

 神は、すべてをお許しになる。しかし、神が、すべてをお許しになったとしても、人は、自らの規律によって裁かれることを、忘れてはならない。神は、すべてをお許しになったとしても、何も保証・保障してくれるわけではない。
 人を裁くのは、自らの行いと、自らの規律である。神が、人を裁くわけではない。神は、裁判官ではない、根源であり、本質である。つまり、行いと規律の根本なのである。
 故に、自らの行いと規律を正さない限り、人は、救われない。

 神は、行いと規律の根源であり、本質である。それ故に、人は、神に救いを求めるのである。それは、神に許しを請うためではなく、自らの行いと規律を糺すためである。自らの行いと規律を糺すことなく、神に救いを求めることは、無意味なことである。
 憎しみを捨てない者が、神に救いを求めたところで何になろう。神に救いを求める前に憎しみを捨てなさい。神は、自らを助ける者を救う。

 神は、すべてをお許しになっている。だからこそ、自らの行いと規律が求められるのだ。人を欺けば、自分も欺かれ。人を憎めば、自らも憎まれる。すべては始まりは、自らの行いであり、すべての報いは、自らの規律による。そのすべてを、神は、許している。神がお許しになるからこそ、厳しく自らを律する必要があるのだ。そして、自らを厳しく律するためには、信仰が必要なのだ。

 神は、神を利用することすらお許しになる。しかし、その報いは、神を利用した者が甘んじて受けなければならない。なぜならば、その報いは、神が与えるのではなく。自らが招いたものだからである。


             
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