神に、何が善であり、何が悪であるかを問うことは、愚かである。なぜなら、神は、善と悪とを、超越した存在だからである。
 何が善であり、何が悪であるかは、あなたが求めるものによって決まる。そして、あなたが、決めた善や悪によってあなたは、裁かれる。
 苦しみや憎しみ、恐怖や不安を求めれば、苦しみ、憎み、恐れ、不安によってあなたの行いは、はかられ、裁かれるであろう。そして、果てしない苦しみと、憎しみ、底知れない恐怖と際限のない不安を、与えられるであろう。それは、あなたが選んだのであり、神が与えたのではない。愛や喜び、平安を求めれば、それによってあなたの行為は、はかられ、裁かれるであろう。愛をまもれば、愛を与えられ、平安を保てば、平安を与えられるであろう。
 幸せになりたいと望めば、幸せへの道が、不幸を望めば、不幸への道が開かれる。

 幸せになれるための条件は、少なく、また、厳しい。それに対し、不幸になるための条件は多くあり、容易い。たとえば、幸せになるためには、強い意志が必要だが、不幸になるためには、幸せなることを諦めればいいのだ。

 幸せは、自分の心持ちによって決まるのです。

 幸福の根源は、欲です。だからこそ、欲を制御する必要があるのです。幸福を求めれば、欲は際限なく拡がっていく。しかし、人間の一生には限りがある。人生に限りがある以上、欲は、その人の全てを飲み込んでしまう。だからこそ、人は自制しなければなりません。

 人は、欲が、あるから生きられる。食欲がなければ、人は、餓死します。神が、そのようにお造りになったのです。
 男と女を、造られたのも神です。男の性器は、排泄するためにだけ、あるわけでは、ありません。それが、神の意志です。
 ただ、自制しなければなりません。幸せになるためには、自制心が必要です。ガスも油も、原子力も、制御するから人の役に立つのです。制御できなければ、危険な物質です。欲望も同じです。制御できれば、生きる活力になります。しかし、制御できなければ、身を滅ぼします。だから、自制心が、なければ、欲望は、危険な力になるのです。

 幸せは、与えられるものではありません。幸せは、勝ち取るものです。幸せになるには、努力が必要なのです。
 端から見て、どんなに幸せに見える人でも、当人が不幸だと思えば不幸です。なんて可哀想なんでしょうと、他人から見て、悲惨な境遇にいても、その人が、幸せだと思えば、幸せなのです。幸福かどうかは、その人にしか判らないことです。他人から見て、伺い知ることはできないのです。そして、生き方や考え方は、その人自身にしか改めることはできないのです。

 神に、何を、為されようとしているのかを問うのは、愚かなことです。神は、あるのであり、為されるのではないのですから。

 神は、あるが為に居られるのであり、為さんが為に居られるのではない。神は、ただ居られるのですよ。

 神は、人生の同伴者です。
 自分の後ろに神が居られる。あなたの後ろに神は居られる。
 あなたが、哀しみに打ちひしがれている時にも、あなたが、挫折し、絶望した時にも、あなたが、喜びに満ち、希望に燃えている時にも、あなたが、感動に身を震わし、喜び勇んでいる時にも、神は、いつも傍にいてじっと見つめていてくださる。

 人を人たらしめるのが神。自分を、自分たらしめ。あなたを、あなたたらしめるのが、神です。

 神に求めるばかりでは、何もえられない。求めるべきは、自分なのだ。だからといって神を否定したり、必要としていないとするのはおかしい。何かを、得たいから、神を、信じるのでも、必要とするのでもありません。また、神は、自分が、否定しようとしまいと存在するのです。

 自分は、不幸だと思い続けている者は、幸せにはなれません。自分を悲劇の主人公にして、不幸であることに自分の存在感を感じる者もいます。そのような人は、未来永劫幸せにはなれません。その人にとっては、不幸でいることが、幸せなのですから。不幸を望む者が幸せになることはできないのです。
 幸せになりたくない、幸せになりたくないという生き方を、しているものが、多くいます。そういう者にかぎって、神は、なんて不公平だと神を呪う。
 しかし、それは、神の問題ではない。その人の心の問題なのです。そして、その人自身がそれに気づいて、自信を悔い改めない限り、神であろうと、その人を、幸せにすることはできません。

 精神的豊かさを求めて、物質的豊かさを追えば、充たされることはない。愛を求めながら、性的快楽に溺れれば、成就することはできない。
 幸せになるためには、本当に自分が何を望んでいるかを、明らかにする以外にないのです。

 望まないかぎり、人は幸福になれない。救いを求めない者を救うことはできない。反対に、不幸は、その人の心が呼び込むことがある。

 何が、天国で、何が、地獄かは、自らの行いと規律によって自ずと明らかだ。
 見栄や外聞を求めれば、それが、その人の天国であり、争い憎しみを行いとする者は、争い憎しみの場が天国となる。富や地位を追い求める者は、修羅の場が天国となり、何もないことを望めば、何もない世界が天国となる。そして、愛欲を好む者は、淫蕩なの生活が天国となる。何が、天国で、何が、地獄かは、あなたの行いと規律によって決まる。神が、あなたに押しつけるものではない。
 そして、天国を求める者には、天国への道が、地獄を求める者には、地獄への道が、開かれるであろう。それは、神が決めた道ではなく、あなたが決めた道なのだ。
 その道は、あなたの行いと規律によって決まる。
 それを、地獄と思うか天国と思うか、それはあなたの心が、決めることである。
 ただ、神を信じなければ、自分の歩いている道が、どこへ続く道なのかを見きわめることができない。神は、その源に居られるのだから。神は、終焉ではなく、始源なのだ。
 それ故に、信仰なき者は、道に迷い、道を誤るのである。迷い、間違うことによって、望みもしない地獄へ堕ちていくことこそ、恐れるべき事なのだ。だからこそ、人には、信仰が必要なのである。
 そして、信仰を必要としているのは、人であり、神ではない。

 正しい行いや規律は、あなたの求めるものによって決まる。
 正義を求める者は、正義を成就する目的によって、幸せを求める者、幸せになる目的によって、心の平安を求める者は、心の平安を得る為に、この世に、秩序をもたらそうとする者は、この世に、秩序をもたらす為に、愛を求める者は、愛故に、その行いと規律を自らが定める。
 自らが定めた規律故に、人は、その規律に従わなければならないのである。
 故に、正しい行いや規律を定めるためには、人生の目的、生きる目的が、重要なのだ。そして、生きる目的を、見いだすためには、存在の根本原因である神への、絶対的帰依と信仰が、必要なのである。


             
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