神の存在を明らかにしたいのなら、ここで奇跡を起こしてください。あの山を動かしてください。昼を夜に換えてください。この不治の病の病人を治して下さい。
 と突然、質問する者がいた。
 その質問にかぶせるようにして、派手な服装をした、遊び人ふうの男が、あざけるようにその方に聞いた。
 神を信じるならば、この崖から飛び降りて見せてくれよ。
 それを聞くと、その方は、珍しく声をあらげて、その者を一喝した。
 神を信じる者は、神を試したりはしない。
 その声を聞くと、遊び人ふうの男は、首をすくめそそくさと、その場を立ち去っていった。
 それを見届けてから、その方は、話を続けた。

 神の存在の証は、奇蹟によって証明されるものではない。存在それ自体によって証明されているのだ。それ故に、神の存在の証を奇蹟に求めるのは、愚かなことだ。奇蹟があろうとなかろうと神は存在している。そして、それは、あなたが、今ここに、存在していることで、すでに証明されているのだ。

 夕べには、明日の朝の訪れを、人々は、信じ切って日々の暮らしを続けている。
 朝には、夜が、来ることを、信じてその日の営みをしている。日は、昇り。日は、また沈む。朝が訪れ、来ることを信じているから、人々は安心して生活できる。これ程の奇蹟があるであろうか。
大宇宙に一定の法則があるという事、これ程、神の偉大さを示す真実があるであろうか。広大無辺な宇宙にも一定の法則がある。この事実は、奇蹟以外の何ものでもない。そして、その壮大なスケールからしても、神の偉大さを示す奇蹟も他にない。しかし、その原理は、人間が、作り出した荒唐無稽な漫画や物語とは違い、単純なものだ。この単純さこそ神の偉大さなのだ。
 仮に、新たな法則が見いだされたとしても、神を否定する動機にはならない。それは、人が、気がつかなかっただけなのであって、神の責任ではないからである。自らの愚かさを神の責任にするのは、恥の上塗りに過ぎない。

 生命の神秘にまさる、奇蹟はない。命は、神の奇蹟。神の存在の証。生命の誕生と生の営みは、神の栄光を、この世に顕している。我々は、命あるものを知ることはできても、その本源を知ることはできない。生命の誕生は、謎に満ちている。なぜ、男と女がいるのか。愛し合い子供を産むのか。我々は、目の前に現れている現象と、その仕組みについて、知ることはできても、生命の持つ本質に触れることはできない。それは、永遠の謎である。結局、人間は、一番肝心なことは知り得ない。その本源に神が居られる。そして、その本源にこそ、奇蹟があるのだ。

 諸行無常。生まれた者は、やがて死ね。形あるものは、必ず、失われる。人は、それを信じている。それは、その法則の背後に絶対なる者が、存在することを信じているからに他ならない。それを奇蹟といわずに、何を、奇蹟と言うのだろう。

そして、奇蹟の中でも、我々の存在そのものこそ、最も偉大な奇蹟なのだ。
 崖から飛び降りても死なないという事が、神の証だというのは愚かなことだ。なぜなら、我々の存在そのものが、神の存在の証なのだから。
 神の証を求めて崖を飛び降りるのは、神を試すことである。神は、そのような試しには乗らない。神を試すことは愚かなことだ。

 一人の若者が立ち上がり。
 いろいろな宗教の聖典や教典には、大地を裂いたり、山を動かすと言った奇蹟が、多く示されます。そして、そのような奇蹟が神の証だと言われています。自分には、このような奇蹟が信じられません。神の証としての奇蹟とはどのようなものなのですか。
 と同じような質問を繰り返した。
 それに対し、その方は、次のように答えられた。

 大地を裂いたり、山を動かしたり、死人を生き返らせたりするのも奇蹟には違いない。しかし、真の奇蹟とは、そのような、超常現象や超能力を奇蹟というのではない。奇蹟というのは、当たり前なことが当たり前に起こることであり、普通の人が、幸せになれることだ。
 人が生まれ、育つ、その平凡なことこそ最大の奇蹟であり、明日、今日と同じように日が昇ることを信じられることこそ、神の恩寵なのである。

 死人を蘇らせ。大地を揺るがし、海を割る。そのようなことが、あり得ないとは言わない。しかし、奇蹟とは、そのような事を指すのではない。当たり前なことが当たり前に起こり、それを何人も不思議にも思わない。そのような事こそ、真の奇蹟なのだ。
 死人を蘇らすことができないから、大地を揺るがすことができないから、海を割ることができないから、神を信じないと言うのは、馬鹿げたことだ。

 真の奇蹟とは、特別、異常なことをさして言うのではない。何でもない、当たり前で正常なものにこそ奇蹟がある。

 真善美が一体となった時、人の世は、神の栄光に満たされるのです。まず、真実です。事実を、正しく見極める事です。次に大切なのは、それが、正しいかどうかです。善と悪とを判断することです。そして、最後に、それが美しいかどうかです。真と善と美が一体になった時、神は顕れるのです。

 いたずらの好きそうな男の子が、そっとその方に聞きました。
 この世の中は、どのようにしてできたの。僕たち、死んだらどうなる。いろんな事を言う人がいるから、僕たち、迷ってしまうよ。誰を信じたらいいの

 その方は、笑いながら、こう答えられました。
 この世の始まりや生命の根源、死後の世界を、いろいろと詮索する事が、悪いとは、私は、思いません。また、推論や仮説を、立てるのも良いでしょう。予測や予言も、意味のないことだとは、言いません。
 しかし、そのいずれもが、推測の域を出ないものだと言うことを、忘れてはなりません。
 知ろうとする気持ち、それは大切です。しかし、それとわかると言う事とは違います。一見、科学的で合理的に見えることでも、すべて、意識が創り出したものです。

 真実は、神のみぞ知る。そして、神は黙して、何も語らない。

 この世は、神が造られたのです。この世は、神の栄光です。あなたの世界は、あなたが生まれた時に生じ、あなたが死んだ時に、消滅する。あなたの世界において、あなたは、神のごとく絶対です。自分の世界は、絶対です。だから、自分の世界に閉じこもっていたら、他は、ありません。それでは、この世に、存在しないのも同じです。自己にあって自己を乗り越えるために、神が必要なのです。神を信じることによって、自分の世界を、乗り越えることができるのです。神を信じる事によって、自己と他を、分かつ事が、できるのです。その時、世界は開かれるのです。

 あなたを救えるのは、あなた自身しかありません。そして、あなたが、あなた自身を救おうとした時、神の力が必要なのです。

             
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