一人の青年が立ち上がると、まっすぐにその方を見つめ、次のように聞いた。私は、この世をよくしたいと思い、神に仕えようとして、ある聖者の所に行きました。そこで、その聖者から禁欲をせよ、そして、世を捨てよと言われました。禁欲し、世を捨てなければ、神に仕えることはできないのでしょうか。

 それに対し、その方は、次のように答えられた。

 人は、欲によって生かされている。欲を否定したら、人は生きられない。
 欲を否定してはならない。


 食欲がなければ、人は、餓死する。排泄欲がなければ、人は、病になる。性欲が、なければ、子孫を、増やすことはできない。知りたいという欲がなければ、危険から身を守ることができない。欲しいという欲がなければ、意欲がなくなり。偉くなりたいという欲がなければ、向上心がなくなる。認められたいという欲がなければ、誇りが持てなくなる。生きたいという欲がなければ、生きる気力がなくなる。このように、人は欲によって生かされている。欲は、人の一生を豊にする。
 しかし、生きるために必要な欲も、規律を失えば、際限なくなり、抑えることができなくなる。
 欲を、抑えることが、できなくなれば、人は、自らを、制御することが、できなくなり暴走する。生きるために必要な欲が、いつの間にか、生きる目的となり。欲望のために人は、生きることになる。そして、最後には、人を生かすべきものが、自らを滅ぼす元になる。抑制力を失った欲望は、人を食らう妖怪になる。それは、原子力が、使い方を誤れば、人類を滅ぼす道具になるように・・・。
 石油にしろ、蒸気にしろ、ガスにしろ、原子力にしろ、器があって、はじめて活用することができるものだ。器がなければ、エネルギーを制御することができなくなり、かえって、危険な物になってしまう。
 同じように、欲は、人を生かす。
 しかし、果てることのない欲は、限りある人の一生を破滅させる。
 欲を活用するためには、規律が必要なのだ。人の規律の根源は神である。故に、神に対する信仰が必要なのである。信仰を失えば、欲望を抑えることができなくなる。欲望を制御するためには、信仰が必要なのです。
 人の世は、シガラミである。世を捨てるのは、他の人、他の生き物との関係(シガラミ)を絶つことだ。人は、多くの生き物によって生かされている。人は、多くの命に支えられている。生きるためには、多くの生き物を食べていかなければならない。世を捨てたとしても、それは、変わらない。世を捨てても、捨てなくても同じ事だ。それは、神との問題ではなく、自分の心の安寧を求めているにすぎない。世を捨てることを考えるより、世の中で生きる事を考えるべきです。

 男と女が居る。それが、神の意志です。他の生物を食べなければ、人は生きられない。それも神の意志です。欲を満たさなければ、人は、生きられない。生きるために、欲がある。それも、神の意志です。だから、恋をしなさい。美味しい物を食べなさい。ただ、生きる為に、必要な物だからこそ、欲が、暴走すると、人は、破滅する。願いを成就する為には、自制心が大切なのです。

 人は、人である限り、人としての悩みから、逃れることは、できません。
 聖人も預言者も、人である限り、人としての悩みから、逃れることはできません。
 人の世は、愛憎の坩堝。人の悩みから逃れる為には、人であることを辞めなければなりません。しかし、それは、あなたを、人として、この世に遣わせた神を、否定することになるのです。人は、何ものかに、生かされている。その何ものかの本質は命です。命の根源は、神です。生ある限り、人は、人として生かされているのです。
 人として生き、人と人との関係に悩み、苦しむ、その現実を、あるがままに、受け入れる以外、自分を生かす術はないのです。
 この世にしか自分の居場所はないのです。そして、そこを超越したところにこそ、心の安寧が得られるのです。この世の悩みや苦しみの一切合切を受け入れ、それを克服させる力は、全てを受け入れ許す心、すなわち、愛にしかありません。だからこそ、心の安寧をもたらすものは、人を許す心、慈悲と愛なのです。
 人を許すことによって、自分も許される。それが、他愛、自愛なのです。すなわち、信仰の実相は愛なのです。

 中年の女性が、その方に聞き返しました。

 自分さえよければいいと言うことは、何をやっても良いという事ですか。
 それに対し、その方は、次のように答えられました。

 よく、他人に迷惑を掛けなければ、何をしても良いという人がいます。これは、間違いです。人に迷惑を掛けないで、生きていける者はいません。
 他人に迷惑を掛けなければと言うのは、自分は、他人に、迷惑を掛けないでも、生きられると言うことを、前提としています。
 しかし、親に迷惑を掛けない人はいません。
 生まれたばかりの子供は、一人では生きられないのです。人は、多くの人との関わり合いの中で生きています。
 迷惑を掛けないと言うのではなく、迷惑を掛けていることを自覚することです。迷惑を掛けながら生きていると言うことは、生かされていると言うことです。要は、生かされている自分を、自覚して、自分を、生かしている何ものかに、感謝することです。そして、その何ものかの根源に居られるのが神です。故に、日々、神に感謝し、祈りを捧げるのです。
 さて、自分さえよければ、何をしても良いのかというご質問ですが、

 そこでその方は、一息つかれ、それから次のように答えられた
 率直に言えば、その通りです。

 何をすべきかは、人と人との関わり合いの中で決まるのです。自分さえよければという事は、自分にとって何が、良いことなのかを、正しく知ることが前提です。それを知らずに、無軌道に行動すれば、神は、許しても、己が、許せなくなります。何をなすべきか、また、その行いを許すかは、本質的には、自分の問題なのです。
 ただ、忘れてはならないのは、人殺しを正しいとすれば、人殺しの国に、嘘をつくことを正しいとすれば、嘘つきの国に行くと言うことです。人を殺せば、自分の命を他の人に委ねなければならなくなり、嘘をつけば、自分の言葉を他の人に委ねなければならなくなります。人を金で買えば、自分も金で売られます。それでは、自分の人生が、自分のものでなくなります。それは、神を否定することにつながるのです。
 何を正しいとするか。それによって、その人の、生きていく世界が定まるのです。

 愛する者を、哀しませたいと、思う者は、いるであろうか。親しい人の不幸を、願う者は、いるであろうか。よく、愛する者を哀しませたり、親しい者を不幸にした者が、自分さえよければ良いんだとうそぶく。しかし、本当に、それで、良いのだろうか。胸に手を当てて考えてごらん。あなたが本当に望んでいるのは、愛する者を喜ばし、親しい人を幸せにすることのはず。自分さえよければ良いというのは、強がりにすぎない。そんな強がりを言っているかぎり、本当の自分の喜びも、幸せもえられない。それは、あなた自身が、一番、良く知っているはずだ。自分さえよければいいと言うのは、自分が何を良しとしているかによって定まる。問題なのは、あなたが、何を良しとしているかなのである。


             
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