2013年10月23日 11:07:32

神について思う

イエスとその死


 イエスの死は、イエスの最後の言葉の解釈によると思います。

 マタイ伝・マルコ伝の
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」

 ルカ伝
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

 ヨハネ伝の
「渇く」といった後
「成し遂げられた」

 この解釈によってその意味が違うと思います。
 僕は、マタイ、マルコの言葉に感銘を一番受けます。

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」
 僕には、この言葉は、絶望的にしか聞こえない。
 それが事実だとしたら。その事実の重みしかないと思います。

 我々が、普段、見聞き(みきき)する、神の救いの話は、絶望的な状況に対するものでしかない。人類の滅亡とか、国家の存亡の秋(とき)ような状況です。しかし、神の救いは絶望的な状況でしか求められないのでしょうか。イエスは、最後の最後までそれを問い掛けていたのです。

 それを考える上で重要なのは、イエスは、本当に絶望的な状況に置かれていたのかという事です。

 イエスは、なぜ、十字架に掛けられなければならなかったのでしょう。本当に絶望的状況だったのでしょうか。イエスは、逃れようと思えば、いつでも、逃れられる状況にあった。それが、重要なのです。逃げようと思えば逃げられた。ならば、自分から絶望的な状況を作り出していったのか。自分を絶望的状況に追いやっていったのか。

 逃れようと思えば逃れられる運命、しかし、それは神の意志、定めに背くと信じたが故に、・・・。弟子達に、おまえ達の全てがわたしに背くという、非常なほど冷徹な言葉を残し、それでもなお自分の運命を受け容れようとする姿勢にこそ、イエスの真実があります。信じた弟子に裏切られ、十字架に掛けられる。そんな状況の中で何が信じられるというのでしょうか。神にさえ見捨てられたとしか思えない状況。しかしそれは、絶望ではない。それが信仰なのです。敢然と自らの全てを曝(さら)して神と対峙する。祈りの最中、逃れたい、できるなら取り除いて欲しいと真情を吐露し、それでもなお、逃れられない苦杯だと悟ったら、私は、あえてその苦杯を飲みほそうと立ち上がる。弟子達のところへ戻ってみたら、誰一人、自分を起きて待ていないことに憤る。それこそが真実なのだと思います。

 イエスの偉大さは、神への絶対的帰依にあると思います。イエスを崇拝してしまうと、かえってその偉大さが見えてこない。僕は、イエスが絶望的な言葉を残して息絶えたという事実こそが重要なのだと思います。復活再生も、最後の言葉の延長線上で捉えるべきであり、イエスの最後と宗教としてのキリスト教、信仰としてのキリスト教とは、切り離して考えた方が解りやすいと思います。イエスは偉大です。しかし、それは神への絶対的帰依者としてです。
 イエスが、全てを見通し、予知していたと考えるから、イエスの本当の凄さが見えなてこないのです。イエスが、ただひたすら、神を信じ、神に従ったのだと考えれば、自ずと信仰の有り様が見えてきます。それが、イエスの死です。死に様です。人に侮られ、辱められ、背かれ、罵られ、茨の冠をかぶせられ、十字架に掛けられても、なお、人を許し、神を信じ抜こうとした。その末に、神に向かってエリ、エリ、レマ、サバクタニと叫んだイエスの心です。

 イエスの復活と再生が現実なのか、架空なのかは、本質的な問題ではありません。復活と再生自体、僕には、問題にならない。重要なのは、イエスという存在です。超人伝説というのは、超能力の話し同様、付け足しに過ぎない。本質には、影響を与えるほどの事柄ではない。むしろ、イエスは、超人でないが故に、偉大なのです。

 イエスは、身悶え悩む。それでもなお、自らの宿命に忠実たらんとする。神への信仰に忠実たらんとする。

 イエスの最後こそがキリスト者に自殺を許さないのだと思います。生きる事、どの様な絶望的な状況においても最後まで、神を信じて生き抜こうとする姿勢、それこそが、神への信仰の証です。イエスが十字架上で逝ったという事実こそがキリスト教の全てです。それが人類の贖罪であるか否かは、イエスに問うべきではない。自分自身の問うべき問題です。

 死ぬことも絶望することも許さず、ただ、信じるままに自分の運命を、神の意志をひたすらに信じ受け容れる。これは、一見、受動的、消極的に、防衛的に見えますが、しかし、イエスの信仰は、能動的で、積極的、攻撃的なのです。つまり、イエスは、強い意志で自らの運命に立ち向かっていたのです。それがキリスト教の強さに結びついていくのです。逃げない。それこそが鍵なのです。どんな過酷な状況においても逃げ出したりはしない。
 やっぱり、イエスの死は、望んだ死ではなく。望まなかった死なのです。
 だから、神に向かって、わが神よ、わが神よ、なぜに我を見捨てたもうかと最後に絶句したのです。
 だから、真のキリスト者は、最後まで、自分の信仰を貫こうとする。迷い悩んでもです。それは、誰かに言われたから、聖書に書かれているから、死んで天国に行きたいから、神に救われたいからではなく、やむにやまれないからです。十字架上からイエスが見ておられるからです。そうしなければいられないからです。だから、イエスの弟子達もイエスと同じ生き方をしようとするのです。

 今、絶望的な状況かというと、決してそうではない。しかし、だからこそ、神の救いが必要なのだと思います。神を怖れるべきなのです。

 十字架上のイエスこそが全てを雄弁に語っているのです。罪は、誰にあるのか。誰が、担うべきなのか。本当に人類は、罪を許されたのか。誰が、その罪を贖わなければならないのか。なぜ、未だにイエスは、十字架上にいなければならないのか。誰が、イエスを十字架に掛けたのか。イエスは、今でも、十字架の上から我々に問い掛けているのではないでしょうか。我々は許されたのでしょうか。

 イエスの死は、自殺でしょうか。違います。殺されたのです。罪もないのに殺されたのです。そして、殺した側に我々はまだ立っている。ただそれだけです。悔い改めない限り、救いはないのです。イエスの死がイエス自身が望んだ死とするのは、自身の後ろめたさからです。自分がイエスを殺した側にいると思いたくないからである。

 あなたは、まだ、イエスは無力だと侮ってはいませんか。問うべきはイエスにではなく、自分に対してです。

 私は、いつも自問自答する。
 十字架上のイエスに向かって。
 自分に対して正直であっただろうかと・・・。
 現代人は、怖れを失ってしまった。
 ドストエフスキーも言っている。
 神は、何もかも許されている。人を殺すことも、物を盗むことも、少女を強姦することも。
 しかし、それを知る者は、それをしないと・・・。
 怖れを失い、神を侮る現代人に明日はあるのだろうか。
 私は、いつも自問自答する。
 おまえは、本当に神を怖れているのかと・・・。
 かつて、我々の父祖は、戦場において、不幸に生き残るよりも幸せに死ぬことを望んだ。それを愚かな事と、生き残った者があざ笑えるだろうか。人が死すべき運命を背負っているとしたら。極限状態では、幸せに死ねるか、不幸に死ぬかは、幸せに生きられるか、不幸に生きるのかと同じくらいの重みがある。しかし、それは生きようとして生きられない状況に置いてである。人は、絶望の淵においてもなお、生きることを求めるべきだ。生きて、自らの真実を追求する事こそ、真の信仰の姿なのである。


 私が高校一年の夏休み。友がシンナー遊びで死んだ。
 夏休みが明けた時、校長が友を犬死にだと言った。
 友がなぜ、死んだのかも問おうともせずに・・・。
 でも、結局、自分は何もできなかった。
 友の名誉の為に何もできなかった。

 それから、二年たち、違う友が退学になりそうになった。
 自分は校長に一人で抗議に行った。
 逡巡する自分に問うたのだ。
 おまえは、死んだ友に言い訳ができるのかと。
 それ以来、自分は、事を起こす時に、自分に問う。
 おまえは、死んだ友に言い訳ができるのかと・・・。

 あなたは、十字架上のイエスに対して言い訳ができますか。
 不正を目の前にした時、信仰を問われた時、人の苦しみに接した時、何もしない言い訳を、あなたは、十字架上のイエスにできますか。




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