神について思う

その時あなたは自分が許せますか


私にとって神は、唯一で絶対な存在です。神は、超越的存在であり、無分別な存在、即ち、善悪を超えた存在です。この様な神は、直感的にしか認識できません。神は、全てです。全てであり部分でもあります。絶対である神は、完全であり無欠です。また、全知全能です。純粋であり、純潔です。
神に、私は、自己を対置します。
自己も唯一で絶対な存在です。自己は、主体です。自己は観念的存在です。自己は肉体を通してこの世にこの世に現れます。自己は、主体であるとともに間接的認識対象です。
この世の中で、直接見る事の出来ない顔は、唯一つ、自分の顔です。故に、人は外界に自分を写す事で自分を知ります。外界との相互作用によって意識を生みます。
この様に自己と外界とは、相互関係にあります。自己と神とは、存在前提です。
存在は、絶対です。絶対的な存在は、意味を持たせる事が出来ません。その為に、人は対象に分別を持ち込みます。分別を持たせた瞬間に対象の絶対性は壊れます。そして、全ての認識は、相対的となるのです。これが認識の相対性の本性です。
存在は、絶対。認識は相対。
つまり、人間の認識は、部分でしかなく、最初から不完全なものです。相対的なものであり絶対的なものにはなりません。
人は神になれない。神を否定する者は、自らを神とする。
善悪は、人の側にあります。善は自己善でしかありません。人は、自らの価値観によって裁かれます。
人は、最後に神の前に素裸で立たされます。人を殺す事を是とする者は、人を殺す事を是として裁かれます。人を欺くものは、人を欺く事を是として裁かれます。憎しみを是とする者は憎しみによって、人を愛する者は、愛によって裁かれます。人は自らの価値観によって裁かれるのです。人は、自らを偽れません。それが神の正義です。
自分と神の関係は一対一であり、何人もどの様な教義も間にさしはさむことはできません。
この世は、修行の場、神と自己とが対峙する場です。
常に、自分を見つめている眼があります。それは神の目です。神の目は、自分の目です。
神が求めているのは、真実です。偽りのない、偽る事のできない己の真実です。ですから、最後は信仰に至るのです。純粋な己の魂の向こうに神がおられるのです。
悔い改めれば神は常にどんなことでもお許しになる。人は、神の祝福によってこの世に生を受けるのです。人の一生は神の恵みです。
神はお許しになります。ただ、許さないのは己です。自分で自分が許せずに自分を罰し続けています。神の本性は、慈悲であり、愛です。神はどんな罪も許します。その証は、自分が存在している事です。しかし神の愛を受け入れないのは己です。
神の赦しを受け入れるためには、先ず、自分が自分の罪を認める事です。自分の罪を認めない限り神がいくら赦しても神の赦しを自分が受け入れる事が出来ません。その上で悔い改める事です。自らの罪を認め悔い改めない限り神の赦しは得られません。
他人の罪業など何の問題にもなりません。何千万人、殺そうと、他人の為に犠牲になろうと、どんな悪党も、善人も、権力者も、聖人ですら全ての人間は、死と言う一点において平等なのです。どんな者も死ぬのです。
その時、我々は何も身に着けることなく神の前に一人立たされるのです。
その時、あなたは自分が許せますか。


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