神の恩


最近、パワハラとか、セクハラとか、時間外、働き方改革などが提唱され始め、私が教えられてきたと事とは正反対の考え方に支配されてきました。
確かに、時代は変わりました。しかし、時代は変わったとはいえ、父祖からの教えは子孫に伝えていかなければなりません。これからどうやって私たちが父祖や諸先輩方から教えられてきた事、躾けられてきた事を次の世代に継承していくか。若い世代に、日本人の魂や日本の伝統的価値観を継承していくか本当に悩みました。
その時、思い浮かんだのが恩です。
嗚呼、俺は、恩を忘れてきたな。恩を教えてこなかったなと恥ずかしく思いました。

「犬だって三日飼えば恩を忘れない。博徒だって一宿一飯の恩と言うのだ。恩を忘れたら人間じゃあない。日本人じゃあない。恩だけは忘れてはならないよ。恩知らずにはなるな。」と言って親父は、私を育てました。
だから今でも恩知らずと言われるのは、辛いし、応える。
気が付くといつでも心のどこかで恩を忘れるなと反芻している自分がいます。

親父は、もう一つ大切な事を教えてくれました。恩は感じるものだという事です。
「恩着せがましい事をしては駄目だよ。恩は押し付ける事ではなく、相手が感じるものだ。恩を感じない者は人でなしだ。日本人じゃあない。だから恩を売るのではなく。相手が恩を感じるような生き方をしろ。そうすれば日本人ならきっとわかってくれる。助けてくれる」と…。そういえば恩と言っても何も感じない人が増えてなと思います。
そう考えてみると自分は、子供たちが恩を感じられるように育ててこなかった。だからいつの間にか恩と言う言葉が聞かれなくなり、廃れてしまった。恥ずべきことです。

そこで、私は、恩とはどんな意味があるのか、インターネットで調べてみました。

恩は、すでに後漢時代の許慎の『説文解字』において、「恵(めぐみ)」という意味だと解説されていた。
日本でも『日本書紀』や『古語拾遺』などでも「恩」は「めぐみ」「みうつくしみ」「みいつくしみ」などの読み方がされていた。
「めぐみ」という言葉の語源は、「菜の花が芽ぐむ」などと表現する時の「芽ぐむ」という言葉を名詞の形にしたものとされている。木や草が芽ぐむのは、冬の間は眠っていた草木の生命力が春の陽気によってはぐくまれて目覚めることによる。つまり、他の者に命を与えたり命の成長を助けることが「めぐみ」を与えることであり、恩をほどこすことなのだということなのである。その逆の立場が、めぐみを受けること、恩を受けることである、と理解される。
恩というのは、狭い意味では、人からさずかる恵みを指しているが、広義には、天地あるいはこの世界全ての存在からさずかる恵みも指している。
仏教では、自分が受けている恵みに気づき、それに感謝することを重視している。キリスト教でも、神から届けられている恵みを感じることが重視されている。自分にめぐみが届いているのだと繰り返し意識することは、幸福感をもたらすことであり、様々な宗教で重視されている。
恵みを受けることは「受恩」と言うことがあり、自分がめぐみを受けていることを自覚することは「知恩」と言う。また、めぐみに報いることを「報恩」と言う。
恵みを受けているにもかかわらず、自分が受けている恵みに気付かないこと、恵みに感謝しないこと、恵みに報いようとしないことなどを「恩知らず」と言う。(ウィキペディア)

恩に気が付いた時、日本人のあいさつの理由も何となくわかってきました。
日本人は、「お陰様」「お世話様」「お互い様」と挨拶します。これが日本人の精神だと思います。

私は、東京の下町育ちにので親父だけに恩を教えられたわけではありません。
それこそ、落語だって、講談だって、浪曲だってほとんどが恩返しの話です。
その中で言われたのは、「お前は、誰のおかげで生きていられると思うんだ。誰お陰でこうして暖かいお飯が食えると思うのだ。誰のおかげでこうした幸せな生活おくれると思うんだ。」常日頃から言われ続けました。
誰のお陰か考えろとは言いましたが、そのだけかは、自分で考えろと言われたのです。
けっしてそれは、上位の者、目上の者ばかりを指しているわけではありません。
恩は、上下の隔てなく感じる事なのです。むしろ、下町の人間は、助け合って生きてきましたから、隣近所。私の父は、会社を経営していましたから。会社のために働いている社員や取引先、そして、お客様にこそ恩を感じろと常日頃から口喧しくいっていました。だから、上司よりも部下に、権力者なんかより、いざとなった時、本当に困った時に親身に助けてくれる人にこそ恩を感じろ。それが下町の義理人情を育んだのだと思います。
決して軍国主義でも封建主義に基づく者でもありません。根本にあるのは、人としての上です。

そして、「おのれの限界を知れ。その時、お前は、この世におけるお前の役割を知る事が出来るのだぞ」と躾けられました。「自分の力だけで生きていると思うな。誰のおかげでえらくなれたかを考えろ。誰のお陰かがわかった時、お前は、誰のために生きなければならないのかがわかるんだ。」「慢心するな。傲慢になるな。偉くなるな。どんな時でも誰のおかげで今の自分があるか考えるのだぞ。それを忘れるな。」と親父たちは言い続けました。
自分は浅はかにも親父は、親の恩を言っているのだろうと、反発もしました。
でも、親父たちは、先の大戦でなくなっていた大勢の英霊の方々のことを言っていたのではとなんとなく思えるのです。それを毎日のように私どもに言い続けました。
今の学校は、この恩と言う思想を捨てました。その証に、卒業式の時、仰げ尊しわが師の恩と歌わなくなった。歌わせなくなった。
わが師の恩を捨てたのです。子供たちは、先生を仰ぐことがなくなり、敬意も払わなくなった。
学校教育で恩を切り捨てた理由はいろいろあります。しかし、どの理由にも筋が通らない。なぜならは、我々が親父たちに躾けられた恩と違うからです。
彼等の言う恩と言うのは、君恩とか、親の恩と、恩師か上位に立つ者に対する一方的な服従心のようなことを言います。
顧客第一主義と言われますが、どうも自分にはしっくりいかなかった。そう思って親父たちの教えを思い出しました。
親父たちは、「お前は、お客様の恩を忘れてはならないよ。確かに、お客様だって筋の通らない要求をすることだってある。道理に合わないことを言われ事もある。時には、どうしても条件が合わずに取引が成立しない時もあるだろう。でもなそういう時だって恩だけは忘れてはならないよ。その上で通すべき筋は通しなさい。商売人にとって信用が一番なのだからな。長い年月かけて培った信用も一回の不義理、不行跡で失う事がある。だから恩は忘れず、筋だけは通せ。」それが親父達の言う商売の鉄則です。顧客が第一かどうかではなくて恩義なんです。儲け第一主義は外道です。商売仲間に通す筋もあるのです。

「お客様は神様です。」といった演歌歌手を知識人は馬鹿にしたが、彼が言いたかったのは、お客様の恩なんですよね。

恩は、義理と人情を生み出し。
恩ある人は裏切れないと恋女房に三下り半を突き付けて義理と人情をに生きた吉良の仁吉や主の恩に報いる為に仇討ちをした忠臣蔵の精神に結び付くのです。

我々はいつの間にか恩を忘れた。恩知らずになってきました。そして、恩に代わって我々が教えられたのは、「迷惑」です。「迷惑をかけるな。迷惑を掛けなければ何をしたっていい。」そう教えられた気がします。だから、今は、「迷惑」「迷惑」と言う言葉で溢れています。僕は余り、この「迷惑」と言う言葉が好きではない。
「迷惑」を掛けなければ何をしてもいいというから俺は誰にも「迷惑」をかけていないと開き直られる。誰にも「迷惑」をかけていないんだからと開き直れば何をしてもいいだけが残る。そうなると、親だって、先生だってお客様だって迷惑なだけの存在でしかない。
私には、「お前ら戦争に負けたのだから周辺国に迷惑を掛けずにひっそりと生きろ。」と聞こえてくる。

「迷惑」と言う言葉を調べてみたら、語源はハッキリとしない。ただ、困った事とか、不愉快な事。要するに、困らせたり、不愉快に思いをさせるなと言う人です。

親父たちは、僕にこういったものです。「親に迷惑をかけない子はいない。子の世話にならない親もない。だから、迷惑をかけるなとは言わない。世話になるなとは言わない。ただ恩を忘れるな。恩を忘れたら、感謝する気が起こらない。不平不満ばかりになる。恩を感じるから、お世話になります。お互い様ですと挨拶できる。お陰様と手を合わせる。」それが日本人なんですね。

親父たちは、「誰のおかげで、今日の生活があると思う。誰のおかげでここまでやってこれたかを忘れるな。自分一人でここまでこれたと思うな。偉くなったら、偉くなったで誰お陰でえらくなれたかを考えろ。恩を忘れたら人でなしだぞ。日本人ではない。」
「先の大戦でこの国を守るために死んでいった人々のお陰で今日の日本の繁栄がある。
それを忘れたら罰が当たる。恩知らずの国になる。それだけは忘れるな。」
今は亡き父に、「親父、亡くなった人々にどうやって恩返しをしろと言うのか。」と問いました。「世のため、人の爲、国のために働きなさい。戦争で亡くなっていた方々が何を守ろうとしたのか。誰のお陰で今の我々がいられるのかそれを忘れるな。どう次に伝えていくか考えろ。それが恩返しだ。」そう言われた気がします。
しかし、この国の偉い人は、恩を忘れようとしている。恩を捨てようとしている。恩知らずになろうとしている。この国の伝統を捨てようとしている。この国の魂を失おうとしている。
私は、恩を教えてこなかった。それが恥ずかしい。日本人を恩知らずにしてはいけないのです。せめて我々が恩知らずにならないように。

この世には、変化している部分と不変な部分がある。そして、変化している部分と不変な部分は、簡単な法則によって結びつけられている。
そして、世界は、時とともに転回している。
絶対普遍な部分は、神のみである。
神は、天でもあり、太極である。
易に太極あり。太極から両儀が生じる。
太極は分かれて陰陽を生じる。
変化は、太極より生じる。太極は一極である。太極より陰陽が生じ二極となる。
陰陽合わさって太極となる。故に、陰陽は常に均衡する。
変易、不易、簡易。これは、易経的世界である。

易経は予測の書であって予言の書ではない。
占うとは予言するのではなく。予測する事である。
当たるも八卦。当たらぬも八卦。

易は、吉凶悔吝を占う事であり、是非善悪を問う事ではない。

剛柔相推して、変その中に在り。辞を繋けてこれに命じ、動その中に在り。
剛柔がたがいにおし動かして、変はその中にある。卦爻にことばをかけて吉凶悔吝など名をつけて、動はその中にある。

決断するは吾にある。易は、決断を促す為の指針である。

故に、是非、善悪より、剛柔・強弱を見る。

強弱は、変動幅によって陰陽を判定する。変動幅が大きければ陽、小さければ陰とする。
何をもって基準と成すかによって易の相は変わる。
大切なのは、何を前提とするかである。

吉凶悔吝は、動に生ずる者なり。剛柔は、本(もと)を立つる者なり。変通は、時に趣(おもむ)く者なり。
吉・凶・悔・吝は、動きから生じるものである。剛・柔は、物事のはじめをたつものである。変・通は、時に対してめざすところのものである。

吉凶とは、貞(てい)にして勝つ者なり。天地の道は、貞にして観(しめ)す者なり。日月の道は、貞にして明らかなる者なり。天下の動は、かの一に貞なる者なり。
吉凶とは、正しくしてまさるものである。天地の道は、正しくして示すものである。日月の道は、正しくして明るいものである。天下の動きは、吉凶と同じく正しいものである。

陰陽と善悪、真偽、美醜の価値観は異なる。
陰か陽かは、善か悪か、真か偽か、美か醜かとは違う。
善の中にも陰も陽もあり、悪の中にも陰も陽もある。
争いや、乱れは、むしろ、陽にある。
平穏や安定は、陰にこそある。
陽だから、善。陰だから悪という訳ではない。

表に現れた陽ばかりを見ていても、裏にある陰を見ないと世の中の真実を知ることはできない。
何を是とし、何を非とするかは、表裏、陰陽合わせて見ないと定まらない。
表ばかりを見てもその裏に隠されている事が察知できなければ物事の真実を見極めることはできない。

太極は、混沌としている。
太極は天にある。太極は神にある。
天と神とは合一である。
天と神が和して東西南北一体となる。
陰陽の働きは、道徳の働きの外にある。

窮すれば則ち変じ、変じれば則ち通じ、通じれば則ち、久しい。

無窮から太極が生じる。
太極は、宇宙の精気を吸い込み、放出する。太極の運動によって世界は変化する。その本性は、渾然一体なる状態、玄妙なるものである。

窮まれば無、則ち、零となる。
陰陽合わさって零、則ち、虚となる。
零には、虚、無、空、始、基の意味がある。
虚は無であり、空であり、始まりであり、基点である。

それがゼロサムな状態である。ゼロサムは均衡を意味し、調和を意味する。

この世は、天、地、人よりなる。天から時が生じ、地から物が生じ、人に命が宿る。
天の時、地の利、人の輪。天地人。

諸行無常は、人の世の理。地の道は、人として守らなければならない筋。それが道理。
人生は、天と地の恵みによる。天と地の恩、人の恩によって生活は成り立っている。
天と地、生と死の間、我が人生あり。日々是好日。

経済は、天下に生じる。
経済は、人の世の出来事。
経済から貨幣が生じる。貨幣は陰である。
陽は、生活にある。経済の根本は生活である。生活とは、生きる樽の活動である。
生活から生産と消費が生じる。生産は、陽であり、消費は陰である。




神は、どんなことをしても許されるのですか。どんな酷い事をしても神は許されるのですか。
そんな疑問を持たれるかもしれません。
神に懺悔し、悔い改めれば神はお許しになる。
そんな簡単な事で罪が許されたなら、誰だった悪い事しますよ。
この世の中無茶苦茶になってしまいますよ。
そう思う人がいるかもしれません。

しかし、神に自らの罪を告白し懺悔し、悔い改めればどんな事でも許されます。
ただ、神に許しを得る前に、自分の過ちを認め。悔い改める事が前提です。
悪いと知りながら悪を為すのは、自分の悪事を本心から受け入れているとは思えません。

自分の自分の過ちを認め受け入れる事はそんなに簡単な事ではありません。
神が自分を許せないのではなく。自分で自分が許せないのです。
正しいと思ってやっていたことが間違っていたと気が付いた時、それを素直に認め受け入れる事は本当に難しい。

許されるとしていて悪を為す事は、それ自体、罪なのです。その罪を認めないい限りどの様な罪も許されません。
そして、自分の犯した罪を認め受け入れる事こそ一番つらく苦しい事なのです。

生きとし生きる者すべて神の祝福を得てこの世に生を受けます。

神は、常に、生きとし生きる者を生かしてくれています。それが神の愛であり、恵みであり、恩です。
その恩を感じることなく、恵みを受けなければ人は、生きられないのです。その事を知らずに生きる事はできても、生きた事にはなりません。

何万にも虐殺した者が、原子爆弾を作った者が、善人を虐げ、迫害した者が、老いた者を金を掠め取った者が、悪行の限りを尽くした者が、自分の過ちを認めるのは、死ぬことより辛いのです。決して簡単な事ではありません。
しかし、自分の罪を認めない限り、その者は、神に背を向けているのです。
神がお許しにならないのではなくて、その者は、自分自身が許せないのです。
人の話を聞いてこの人の言っている事は、正しいと思えば、素直に従えばいいのに、なんだかんだと言って素直になれない。自分の犯した罪を他人の性にしている限り、人は許されないのです。自分の罪を罪として認め悔い改めれば神はどのような罪でも許してくださる。



なぜ、あなたはここに居るのかと神は、無言で我々に問いかける。
神の眼差しを我々は拒むことはできない。
神の恩は限りなく。神の恵みによって我々は、生かされている。
神の恩を感じなければ、神の赦しは得られない。
神の恩に感謝し、ひたすら祈りなさい。
そうすれば必ず神の赦しは得られる。
神の赦しを受けられなければ我々は救われない。



人は、なかなか自分の過ちを認めようとしないものです。
自分は何も悪い事をしていないと思いたがる。しかし、それが躓きの始まりなんです。
なんでも素直に認めて改めれば楽になるのに傍から見ると思うのですが、当人は、頑固に自分が悪いとは認めない。
それはも、私だって例外ではない。
過ちを過ちとして認められれば悔いはないのにと思うのですが、難しいものです。


人は、自分の為だけには生きれない。
何故ならば人は一人では生きていけないからです。
人は、自分を生かしている何者か、人を存在させてくれる何者かの存在に気が付いた時、自分の生きる意義や自分を生かす道を知る事が出来るのです。
地位や名誉が自分を生かしているわけではなく。況や「お金」が自分を生かしてくれるわけでもない。
「お金」は、生きる為の手段になりえても、生きる目的にはなりえないのです。
人の命に限りある以上、地位も名誉も財産も限りある物です。
永遠不変なのは神の恩愛のみなのです。


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