神について思う

私の結論


私の結論です。
神は人を試したりしない。なぜならば、神は人を試す必要がないからです。
神は、望めばどのような事でもできるのです。
人を試すような存在は神ではない。

神は、何も人を試す必要がない。
試されたと思うのは人です。
神は絶対なのです。

私は、どの様な状況、どの様な環境でも神の方をまっすぐ見て信仰を貫くつもりです。
信仰を守れるかどうかは私の問題であって神に責任があるわけではないのです。

最近しみじみ思います。戦場で死ぬのも、十字架上で死ぬのも、病院で死ぬのも、一人孤独死をするのも、家族に看取られて死ぬのも、死ぬことには変わりない。
確かに、処刑された様などを見せつけられると無残な思いもします。
しかし、病院で病気で死ぬのも無残です。植物人間のようになっているのも無残。
いつどこでどのように死のうと無残な死は無残な死です。

ならばなぜ、人は自分の死にざま、死ぬ場所にこだわるのだろう。確かに戦場で悲惨な死に方をする人もいます。しかし、一人孤独死をしていく老人もいます。そのどちらが悲惨で、どちらがいい死にかたかなどというのは、結局、誰にも言えない。

だったら、ますっぐ神の方を見て生き、死んでいこうとそう覚悟しています。死に方は、結局、自分では選べないのです。自殺したとしても…。

逆境である事は、信仰を捨てる理由にはなりません。不遇に落ちたとしても信仰を捨てる理由にはなりません。信仰を深める理由になったとしても…。迫害も然りです。自分の思い通りにならないからと言って神の性にするのは、言い掛かりです。神に祈願した事が成就しなかったとして神を呪う言い訳にはなりません。それは自分の弱さを露呈しただけです。

僕は、真の神は死神だと思うようになりました。それは、どくろや鎌を持った神ではなく。優しく包み込んでくれるような神。温かく迎えてくれるような神ですね。

死は、平等に訪れるのです。死の前に人は平等なのです。平等とはそういう事の様な気がします。

神の前に我一人。ひとりたちて首を垂れ、ひたすらに祈る。ひたすらに祈る。



私は神のみを恐れる。
狂気
神と民主主義
神と国家

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