神について思う

人類の滅亡に関して


おそらく神は、人が思うほど、人類滅亡を危惧してはおられないよ。
多分、人が絶滅危惧種に対して払っているほどの関心も神は持っておられないではないのか。
神の摂理に反して人が滅亡したとしてもそれは自業自得なのであって神は痛痒も感じない。
仮に人類が滅亡したとしても新たな種を生み出してやり直せばいい。
神にとって時間は有り余るほどあるのだ。
人が環境を悪くしたり、戦争によって滅びたところで、それは自分たちの悪行の報いに過ぎない。
神に救いを求めたところで虚しい事である。

人は、自らの責任についてもっと自覚すべきなのである。
人が犯した罪は、人が贖わなければならない。
神を呪っても仕方がない。

人は、困った事があると神に縋るくせに、平穏になると神を蔑ろにする。
神の恵みを自分たちの力だけで勝ち取った物のように勘違いをする。

科学文明は、人間を愚かにした。
人工知能を怖れても、神を侮るなんて笑止千万である。

どんな科学技術が進歩しても神を越える力を得る事は人にはできない。
人は神にはなれないのである。

人工知能を怖れる人間は、神に対する怖れを失ったに過ぎない。
原子力を活用できたとしても、それを制御する事が出来なければかえって仇となる。
人工知能は、神を越えられない。原子力も神は越えられない。
科学技術を絶対視するのは、人間の愚かさの証にしかならない。

科学技術は人間を賢くするどころか、愚かにし。
そこら中に人類滅亡の種をまいたに過ぎない。

滅亡する。滅亡すると騒いだところで、人は所詮、死ぬ時に死ぬのである。
だからといって、先を諦めて自堕落に生きる事が悟りなのではない。
今を面白おかしくではなく、清く正しく生きる事の方が己を全うできるのである。
なぜなら、前者は快楽に敗けて己の欲望に身をゆだね、己を己の力で抑制できなくする事を意味し、後者は、自らの意志で自らを抑え、自らの信じる事を実現しようとする事を意味するから、自らを純化するからである。

一番問題なのは、人間の思い上がりであり、傲慢さである。
科学技術が発達したからどうだというのだ。多少、生活がしやすくなったからと言って神を蔑ろにしていいわけではない。
科学も神の摂理の延長線上にあることに変わりはない。
科学技術の進歩によってこれまで不可能だったことが可能になったとしても、神を侮る理由にはならない。
人間が科学技術の力を過信し、神に祈りを捧げなくなったのは、
単に恩知らずになっただけではないか。

その結果、破滅的な兵器、核兵器だの生物化学兵器だのを生み出して、人類滅亡の影におびえているのは、喜劇でしかない。

神は、必要としているのは、人であって、神が人を必要としているわけではない。



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