神について思う

理屈ではない


僕は、なぜここにいるのか。
なぜ、生きているのかの答えは、理屈では答えが出ないと思うのです。
理屈でこたえようとするからわからなくなる。
哲学や物理を学んできた結論が、理屈ではないと言わせるんです。
哲学や物理を学んできた人間が理論を捨てるような事に見えるかもしれませんが、我々が求めてきたのは、理屈だの理論だの裏にある。
愛とは何ぞやと問う前に、汝愛せよですね。
愛とは何かなんて考えてばかりいるから、愛は不毛でスカスカになり、性欲ばかりになってしまう。
愛って全然違うんですね。

僕は、だから、なぜ生きているかとか、なぜ、ここにいるかというのは、そこにいる人、共に生きている人、共に生きようとしている人との魂の共鳴共感、シンパシーでしかない気がするんです。

なぜと問うな。
それは、なぜおまえがここにいるのかと問う事と変わりがないじゃないか。
今、お前はここにいて、共に泣き、共に笑い、同じ目的、同じ時、同じ場所を共有しようとしているではないか。
今、俺はお前を信じ、確かなる絆で繋がっているのではないか。それだけでいい。それだけで十分だ。友よ共に生きよう。

理屈で言い表せないから武人の嗜みは詩に求められた。
理屈で言い表せない魂の叫び。だから、古来、小説や論文より、詩を重んじた。
今は、詩よりも小説である。

今、真田丸とか、維新の時代の若者たちの話を聞く時、彼らは、何によって生き、何を我々に伝えようとしているのか。
それは時代を越え、立場を越えて我々に共鳴共感する魂の叫びである気がするのです。

現代人は、とかくそれを理屈で考えようとする。理屈でわかった気がしている。でも、神の事なんて説明のしようがないんですね。
なぜ、信じるのかと言われても…。
それより仲間の気持ちを一つにするためにと思ったほうがなんぼか良い。

なぜ、トランプがあそこまで健闘するのか。それは、理屈で考えようとするとわからない。
でも、自分を生きようとしている人たちの魂の叫びだと思えば何となく通じてくる。
勝ち負けを越えたところに何かを求めているんですね。

金のためにとか。成功するためにとか。
偉くなるためになんて、
そんなことは理屈なんです。
でも本当は理屈なんかで人を愛したわけではない。
いとおしいと思い、守りたいと思い。
あるいは、抑えがたい衝動のようなものなのかもしれません。
訳もなく涙が出てきたり。
顔を見た瞬間、うれしくなったり。
自分の事でないのに腹が立ったり。
わけがわからない事。
でも、人を愛した事を理屈で考えようとしたら、その時から愛なんて色あせていく。
それより、ぬくもりだったり、声が聞きたいという切ない思いだったり、ありがとうと言われた事だったり。
一見たわいがないけど、心にじんと来ることですね。
でもその一見たわいのない事の裏にある真実。
それが感じられなくなったら、愛もへったくりもない。
愛なんて理屈で考えるものではないんですね。
好きだから好きなんです。
どこか好きなのと聞かれても答えようがない。
愛を感じた。その瞬間ですね。自分のすべてを投げ捨てている。
小鳥だって雛を守るためには、捨て身の行動をとる。
母親は子供を守るために体を張る。
理屈ではないんですね。

ああ、お前のためなら死んでもいいと思った瞬間ですね。全てが見えてくる気がするんです。

だから、理屈を言い出したら愛なんてスルスルと逃げていく。
哀しいですね。哀しいです。
それで寂しいなんて…。寂しいなんて愛を追い求めたら。
哀しいです。

友よ。共に生き、共に笑い、共に泣き、そして、お前のためにこの命捧げよう。




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