神について思う

自分の道



私は、最近、人はそれぞれ歩むべき道き違うのではないのかと思うようになりました。
人それそれ自分の歩むべき道があって、親と子、妻や友達も皆違う道を歩んでいる。
時には、ともに同じ道を歩むことはあるにしても、やっぱり自分の道は自分の道なんですね。

女房とか、仲間は、ともに同じ道を歩むこともある。でも、結局は、自分の道は自分の道なんですね。

自分の進むべき道さえ間違わなければ、きっといつか神と出会う事ができる。
というより、神というのは、同行者ではないのかと…。
神は、本当はいつもそばにいてじっと見守っていてくれる。
一緒に同じ道を歩んでいてくれるそういう存在なのではないのか。

何時でも、じっと自分を見守り、時には見失う事もあるけれど、ふと気が付くと優しい眼差しで見守っていてくれる。神の前では、素直に邪気のない自分に戻れる。

神とは、そんな存在である気がするんです。

息子は、息子、女房は女房の道を歩んでいて、友の歩んでいる道は友の道、それは同じ道の様で実は違うのかもしれませんし、違う道を歩んでいるようで実は同じ道なのかもしれない。

時には、道が重なり合い、同じ時と場所を共に歩むことがあるかもしれませんが、
でも、息子が歩んでいる道は、息子が歩んでいる道で、女房が歩んでいる道は女房が歩んでいる道・・・。

結局最後は、一人で一本道を進んでいかなければならなくなる。でも、その時、自分の進むべき道を照らしてくれる神を信じられるかどうか。自分の歩んでいる道を信じられるかどうか。それが肝心なのだと思うのです。
道に迷わないためには、自分の道を信じられるか否か、それしかない気がするんです。
この道に間違いはないそう信じられるような生き方をするしかない。

だから、同行する神の前なら素の自分に戻れる。
そういう風になれるよう日々精進しているのです。



私は、人は死の前に平等だと思うのです。
死という一点おいて全てが純化されてしまう。
大統領だって、聖人だって、君子だって、独裁者だって、絶世の美人だって、大スターだって、大富豪だって、強盗だって、殺人鬼だって、テロリストだって、貧乏人だって皆死という一点において純化されてしまう。
それは避けようのない事です。
人類が滅亡するとか、この世の終わりだとか、騒いだところで、人の死は、日常的なところで粛々と進んでいて。
実際問題、人類滅亡やこの世の終わりよりも一人の人間にとっては余程深刻な事なのです。

それは、死後が信じられるか否かとか、輪廻転生がどうのとかといった議論をせせら笑うがごとく。人生の目的だなんて頑張ったところで、大成功をおさめたところで、死は確実に迫ってくる。死によって時間が凝縮され、そして、停止してしまうのです。
何が正義で、何が真理かなんてわかりようもない事だし、わかったところで死という現実の前に空しい。
だとしたら、己の真を今尽くす以外に死を克服する事はできない。
僕にとって神は死神なのです。
死を前にして嘘をついたところで、虚勢を張ったところで、世の中をはかなんだところで、自信を無くしたところで、自分を欺いたところで、他人を呪ったところで、人を羨んだところで、見栄を張ったところで何の意味もない。ただあるのは赤裸々で無力な自分です。
でも、僕にとってはそれは絶望ではないんです。むしろ希望です。
死という現実を前にしたら、何も怖れることなく、あるがままの自分を受け入れ、あるべき姿を追い求めて生きていくことができる。
そういう死という現実を前にして、やっぱり、自分を純化し、突き詰めていくしか生きようがないのです。
死を恐れるからこそ自分の真実を突き詰める事ができる。
自分に正直に生きるしかなくなる。
その時間、死ぬ瞬間を突き抜けたところに、私は、神への信仰を持たざるを得ないのです。
だから、神への信仰は絶対なのです。

自分の安心立命を得る為にも…。



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