神について思う

神の前に立たされた時


神の前に一人立たされた時、
お前は、神に対して何を語ろうというのか。
何を応えるのか。

人は、神の前にただ一人立たされた時、あらゆる属性、属人的な部分、全ての夾雑物を剥ぎ取られ、素裸にされる。
その時、あなたは神に向かって何を語れるのだろうか。
なんと応えようというのか。

大統領も、庶民も、王侯貴族も、将軍も、大富豪も、僧侶も、牧師も、警官も、犯罪者も、検事も、弁護士も、判事も、医者も、教師も、スパースターも、男も、女も、親や子も、美人も、醜女も、黒人も、白人も、黄色人種だって、スパースターも、ファンも、イスラム教徒も、キリスト教徒も、神の前に平等なのだ。

神に向かってあなたのために殺したのだと言っても神は、拒絶するだろう。
争いをしてはならないなんて神は言われているのではない。
ただ争いは、人の世の出来事。神の感知する事ではない。
争いによって生じたことの責任は人がとる事。
神に、その贖いを求めても無駄である。

なぜ、神を敬称をつけて呼ばないのか。
別に深い意味があるわけではない。
神様と言いたければ言えばいいし、神とのみ言いたければ言えばいい。

神は絶対であり、神に敬称をつけるつけないは、本質的な事ではない。
神を疑似化して神に媚びたところで神に何の影響もないから、どちらでもいい事である。
それは神に対する自分の思いの表れに過ぎない。
だから、神様と呼びたいものは呼べばいいのである。

大切なのは、神に対して自分がどれだけ誠実でいられるかでしかない。



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