2001年1月6日

神について思う

哲学について


 現代は、科学万能時代、哲学は、科学の陰に隠れてしまっている。一部の科学者は、哲学不要論まで言い出している。この世の全ての現象、出来事は、科学によって解明できると言う考えに社会は支配されつつある。そして、人間は、どんなことでも許される。どんなことでも成し遂げられるという思い上がりにも繋がっている。

 しかし、考えてみよう。人間の本質的な悩み、苦しみである生病老死は、何も片づいていない。人は、病み、老い、そして死んでいく。その背後にある本質は、何も解っていない。それが真実なのである。結局、科学が発達した現代でも、お釈迦様の時代と、人間の悩みの本質はなんら変わっていないのである。

 真理とは何か。科学も哲学も真理を探究する学問であることには変わりはない。しかし、その探究の仕方、アプローチに大きな違いがある。

 哲学は、第一に存在論。第二に、認識論。第三に論理学があって成り立っている。

 残念ながら、日本には、哲学は存在しない。それは、日本で哲学を学ぼうとした時、存在論をきちんと立論した上で、認識論や論理学を学ぶのではなく。いきなり、自分以外の他者が書いた物を解釈することから始めるからである。その為に、自分の理論を構築できずに、自分以外の者の著作を解釈するか、最悪、記憶するだけの学問になってしまうからである。
 それ故に、日本に存在するのは、哲学ではなく、解釈学か、文献学である。つまり、哲学もどきである。哲学者ではなく、哲学学者である。

 解釈は哲学ではない。解釈は、認識の一部に過ぎない。哲学は、文献学でも解釈学でもない。生きた学問である。哲学とは、哲学するものである。哲学とは、思索である。自己の存在をかけて思索することである。それ故に、存在論が中心なのである。

 哲学の中核に存在するのが存在論である。存在論を核にして、存在論を認識論と論理学が補完するようにして哲学は成立している。

 科学は、存在論をとりあえず棚上げし、認識論を核にし、数学に基づく論理学から成り立っている。つまり、存在論、形而上的な問題を切り離すことによって、学問の基礎を構築しているのである。

 科学が力を得るに従って現代社会は、認識論と論理学が突出し、存在論が忘れられてしまった。

 認識論が強くなると存在よりも認識の方が優位になる。認識しない物は、存在しないことになる。しかし、存在と認識とは、本来、別次元の問題である。

 しかし、認識は、最初から絶対的認識を前提としてはいない。元々、認識論も、論理学も、限界があることを前提とし、その為に、相対的な体系として捉えてきたのである。
 それが科学が発達することによって、認識論の延長線上において存在論を組み立てようとする動きが表面化してきた。その為に、科学の限界や認識論の限界が忘れられ、科学を万能な体系とする様な転倒が起こっている。

 認識論の延長線上で存在論を捉えようとしても自ずと限界がある。同様に論理学にも限界がある。認識論も論理学もそれ単体では限界がある。存在論、認識論、論理学が構造的に結びついてはじめてその限界を超えることができるのである。そして、そこに哲学が成立する。

 自然法則も認識されていなければ、存在しない事になる。つまり、科学が発達する以前には、自然法則は機能していなかったことになる。しかし、そんな馬鹿げたことはない。人間が認識しようとしまいと、自然の法則は、働いていたのである。

 証明できる事は事実であり、証明できないことは、事実ではない事になる。証明できるか、否かと存在の有無は、別の問題である。例え、証明できなくとも真実は真実である。

 論理的に正しいことが真であるとは限らない。逆に、論理的に矛盾しているから偽であるとは限らない。論理が保証しているのは、確かさである。しかし、より確かなのは実在である。

 実在が否定されるのは、死によってである。しかし、死は、死すべき者にとって認知し得ない現実なのである。

 論理のみによって真偽が明らかにされるならば、論理的に矛盾しない事が真であり、論理的に矛盾する事は、全て真でないことになる。しかし、論理は論理である。論理自体が対象の真偽、善悪を判定するわけではない。論理的に正しいというのは、論理的に矛盾していないという事だけである。
 論理的に正しいことが真であるとしたら、説明できる事が真であり。説明がつかない事は偽である事になる。
 真が善にかぎりなく近づいている様に思われる。それは、科学万能主義、科学的論理が、倫理観や宗教に取って代わろうとしているからである。
 真と善が一つになれば、真であることは、善であり、善であることは真だという事になる。そして、論理的に説明できれば、真であり、善であるという転倒した理屈である。それ自体が論理矛盾を引き起こしている。つまり、結果が原因を支配しているのである。いくら論理的に説明できても間違いは間違いである。

 法は、最低限の倫理であり、合意に過ぎない。人間が守るべき事は法によって限定できるものではない。違法ではないのだから、善いではないかということになる。違法というのは、論理的に法の条文に反していないことのみを意味するのならば、誰も、道徳など見向きもしなくなるであろう。更にエスカレートして、見つからなければ善いではないかということになる。年寄りや子供に無慈悲なことをしても、明らかに有毒である情報や物質を流したとしても、法に、違反していなければ善であるという事になる。逆に言えば、あらゆる事を、例えば、幼児虐待を例にとれば、幼児虐待を事細かに法で規定しなければ、幼児虐待を取り締まれなくなる。しかも、法は、基本的に取り締まるものである。法では、幼児虐待を未然に防ぐことはできないのである。
 かつて、残酷なシーンが多くある上、道徳的に子供に悪影響を及ぼす可能性のある考え方で制作された映画が、国会で取り上げられた。しかし、その映画がヒットしてしまうといつの間にか、法を犯したわけでもなく、ヒットしたのだから善いではないかということになってしまった。そこには、善悪の問題が忘れ去られている。
 違法でなければ何でも許される。そして、それが違法であるか、ないかは、警察やメディアが判断する。それが許されるとしたら、それは、倫理からかけ離れた世界に成るであろう。つまり、善悪とは無縁な世界なのである。

 論理的に真である事は、正しい、即ち善であると言う考え方は、極めて危険である。それは、法律万能思想でもある。法的に違反してさえいなければ正しいと言う考え方である。この様な考えは、倫理的基準の最低線を適法的基準にまで引き下げてしまう。違法でなくとも道義的な責任、倫理的には、許されないことはいくらでもあるのである。

 結局、論理は、飛躍する。それは、科学や数学の論理とて、例外ではない。その隙間を埋めるのは、絶対的存在、現象であり、対象である。多くの人は、その事に気がついていない。最後は、直感でしかないのである。根本は、神への信仰である。

 真偽の基準と善悪の基準は、別次元である。善悪の基準が真偽の基準と同値な体系になれば、倫理観から人間性が喪失する。なぜならば、真偽は、認識上の基準であり、善悪は、意識上の基準、主体的、意志的基準だからである。
 認識は、受動的な作用である。意識は、主体的、能動的作用である。真と偽を見極めるのは認識力であるが、善と悪とを見極めるのは人間の意志である。

 例えば、堕胎を認めるか否か、安楽死問題、臓器移植問題、死刑の是非などは、まだ解決を見ていないのである。それをただ法的な問題としてしか処理できなくなれば、人間としての価値観、尊厳は、失せてしまう。
 しかも、一度、倫理的基準が違法か否かの線にまで引き下げられてしまうと、倫理的基準と法的基準は、同一化してしまう。そこには、哲学的な裏付けがないから歯止めが効かないのである。しかも、更に、宗教的な抑止力もなくなれば、殺伐とした世界になってしまうの当然の帰結である。
 科学的基準を絶対化することによって倫理観が無機質なものになり、その為に、社会制度において人間の意志が働かなくなりつつある。

 いくら、遺伝子工学が発達したとしても生命の神秘を解き明かすことはできない。また物理学が発達しても、存在その物自体の本性を明らかにすることはできない。その事は、科学の大前提だったのである。

 科学は、存在論に触れないことによって最初から絶対的な体系にはなり得ない、限界を前提として成り立っていたはずであり、自らの限界を前提としていた時には、それなりの自制が働いていた。しかし、科学を万能とし、科学の限界に無自覚になるととたんに科学は暴走を始めたのである。そして、それは、核兵器や環境破壊という自壊作用を招いているのである。

 現代人が、哲学を正しく理解していないと言える証拠は、聖書や聖典を哲学書や科学書の筆頭にあげていないことである。聖書や聖典を抜きに哲学など語りようがない。

 科学は、物と物との関係や在り方、有り様を明らかにしているに過ぎない。そのもの自体の存在を明らかにしているわけではない。

 存在論と認識論の違いは、存在と認識、本質的な差に基づく。そして、両者は、補い合っう事によって成立している。故に、哲学は、存在論と認識論によって成り立っているのである。その両者を結びつけているのが論理学である。

 存在は、絶対的であり、認識は、相対的である。存在は完全であり、認識は、不完全である。そして、この存在と認識の関係、状態を空というのである。

 色不異空。
 空不異色。
 色即是空。
 空即是色。

 哲学を学ぶ者にとってこの視座は重要である。ここで重要なのは、空の思想である。空とは、虚でも、無でもない。空というのは、虚無ではない。
 空とは、空疎とか、空しいという事ではない。そう解釈することができないではないが、本来、空というのは、もっとダイナミックな物であり、色(現象)や森羅万象と同じぐらいの重みや内容がある。空っぽで、何にもない空間と解釈したらあまりにも軽い。それで、この世や人生は、虚しいと言って達観するのは、愚かなことである。
 空を理解するためには、諸行無常、諸法無我が重要な鍵を握っている。この世に定まる物はなく、また、他との関係なく存在する物はないと言うことである。そして、それが存在物の本性であり、その全体、空間を、あるが儘に受け容れる事、それが空である。そして、その空は、直観的にしか捉える事ができない。

 確かに存在する物は存在する。それは、任意な存在であり、自明な存在である。任意で自明な存在は、直観的にしか認識できない。それは、そのまま受け容れるしかない。
 
 諸行無常。実体は、存在と時間の関数。全ての存在は、変化する。時間は、変化の単位である。故に、運動は変化である。実体は運動である。 

 科学万能という錯覚が世の中に横溢した。更に拙い事に、日本に、哲学的な素地が成立していない。その為に、科学の暴走や人間社会の無機質化に歯止めがかからない状況に陥っている。人々の倫理観は危機的な状況にある。
 自制心、理性は失われ、利己主義や刹那主義、快楽主義に支配されつつある。

 現代日本は、科学万能という、科学に対する信仰にも似た思いこみによって真善美の調和が崩れ、善も美も真によって支配されようとしている。真なるものは、善であり、美であるような錯覚に社会は、陥ってる。

 しかも、現代日本社会には、哲学的な宗教的な裏付けもない。つまり、社会としての本性がないのである。本性のないところに道徳はない。あるのは利害関係だけである。その利害関係が法律を形成している。日本人は、利害関係を倫理と勘違いをしている。

 その様な状況下において、近々、裁判員制度なるものが導入されようとしている。死刑や無期懲役、禁固刑に相当する重罪を一般市民に裁かせようと言うのである。
 宗教的な裏付けもなく。哲学的な裏付けもないものがどうして人を裁けよう。これこそ、国家暴力の最たるものである。

 法律と法(ダルマ)とは違う。法律は、人間が創り出したものだ、それに対し、法(ダルマ)は、神の法である。哲学も宗教的裏付けもなく、人を裁く事は、違法ではないかもしれないが、無法である。

 哲学は、世捨て人にはできない。古典や他人の著作ばかりを研究しても学問は、成立しない。医学部の人間は、医学書の古典や死体の解剖ばかりをしているであろうか。医学が発達するのは、生きた人間を相手にしているからである。機械工学の研究者は、古い書物を分析しているであろうか。過去の遺物を再現することが仕事であろうか。哲学は、生きた学問である。生きている世界をこそ相手とすべきなのである。

 哲学というのは、超俗的なものではない。むしろ俗っぽいものである。だからこそ、哲学には意義があるのである。それを何か訳の解らない、小難しいものに哲学に携わる者自体がしてしまっている。言葉遊びか、観念遊び、それが、現代人の多くを哲学嫌いにしてしまっている。
 哲学というのは、生きていく為の指針、基礎である。それを忘れては哲学は成り立たないのである。



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