神について思う

道  徳


現代人の悩みには底がない。
ある意味で救いがない。放置すれば、精神は荒廃し、人格は崩壊する。
人としてのアイデンティティ(同一性、統一)を保てなくなり、人格が分裂していく危険性がある。
要は、異常者を大量生産しているようなものである。

何が現代人の悩みを底なししてしまうのか。
原因の一つは、精神の問題の全てを病気だとし、薬や医療行為で治癒すると決めつけていることにある。

精神の崩壊を導く最大の要因は、道徳や価値観は教育できないとしている事にある。
一人ひとりの個性、主体性を重んじる為に、特定の規範や道徳を教えるべきではないと教育の現場では考えている。
個性や主体性を重んじるどころかいつまでたっても自立できない人間を増やしてしまっている。

教育の根本は、道徳にある。教育の基礎は道徳によって築かれる。
つまり、人倫、人の道を教え、生きる為の道標を持たせるのが教育本来の中心課題なのである。
人生以下に生きるべきかを指導できない教育、魂のない肉体のような事である。
それは骸に過ぎない。ただ醜悪なだけである。

現代社会で道徳教育を担っているのは、漫画やテレビ、映画、ゲームである。そこに現代社会の危うさがある。作り手も受け手も無防備だからである。
何も意図せず、何の裏付けもないまま、ただ、商業的目的で子供達に核となる価値観を植え付けている。
有名なコメディアンや漫画家は、自分達にそんな意図もなく、力もないただ子供達に受けるからだと公言し、それだけの理由で子供達の将来生きる為の規範となる価値観を刷り込んでいるのである。
その根本に儲かりさえすればいい、売れることは正しい、子供が欲することは正しいという暗黙の前提がある。

考えても見ろ。糖尿病患者が甘いものを欲するからと言って砂糖を与え続ければどんな結果になるかを・・・。
麻薬を中毒になると知りながら子供に与える親を許せるというのだろうか。
親がどんなに反対してもメディアの連中は、自分の論理をごり押ししてくる。
結局、どんなきれい事を言っても背後にあるのは、人気取りや金もうけを基盤とした、子供達に迎合的な価値観なのである。

面白可笑しく、楽しければ何でもいい。受けさえするば正しい。親や社会がどの様に受け止めようと、自分達さえ善ければそれでいい。そういう価値観を前提としているのである。
なぜならば、漫画もテレビも映画もゲームもビジネス、商業主義の上に成り立っているからである。どんなに低俗でも売れればいいのであり、どんなに良質でも売れなければ価値がない。そういう基準でしか測れないのである。
親がどう思おうと知ったことではない。

その一方で正統的価値観で躾けることを教育者は拒否する。
たとえ、保護者や自治体、国家がそれを要求してもである。
教育者が基本とするのは、唯物論者の論理であり、組合の論理であり、無神論者の論理であり、敗者の論理である。
彼らに言わせれば、科学も、歴史も、民主主義も、近代国家も、近代合理主義も、法治主義も、皆、無神論、唯物論の上に成り立っていることとなる。それが近代的合理精神、科学主義なのだと主張する。
そして、彼らはそれを自明のことのように押しつけてきて、親や社会の言う事など耳を傾けようともしない。
しかし、彼らの言い分は、一方的な論理であり、偏見である。

彼らの言い分は、彼らが否定する宗教と何ら変わりはない。ただ彼らは、自分達人類を最上に置き絶対だとすることで、神を恐れる既成の宗教よりずっと質(たち)が悪い。
科学を万能とするのも神話の一種に過ぎない。科学は、万能ではないし、科学は全てを明らかにした訳でもない。
元々科学は、人間の認識の限界を受け入れることによって成り立ってきたのである。

科学も、民主主義も、信仰なくしては成り立たない。
人類を自己を超越した存在を認め、恐れるからこそ科学は成り立つのである。
科学者が信仰心を失えば、兵器も、技術革新も、開発も歯止めを失い欲望の赴くままに暴走をしてしまう。
力を得た者は自制しなければならない。
自制する為に必要なのは、道徳であり、信仰なのである。
自制心をなくした科学や技術が引き起こす災いは、人類自らに降りかかる。
それを抑制できるのは、道徳、倫理しかないのである。

漫画やテレビ、映画、ゲームを教師とするのも、学校教育に任せきってしまうのも、いずれにしても偏向している。
しかも、どちらにしても、親や社会の要請は受け入れられない。

民主主義には民主主義の道徳がある。
国民国家には、国民国家の道徳がある。
法治国家には法治国家の道徳がある。
市場経済には、市場経済の道徳がある。
民主主義的な道徳とは何かを議論する事は、民主主義の本質を明らかにする事にもつながるのである。
そして、義務教育の意義を明らかにする事にもなる。

民主主義や市場経済では、自立した個人を前提としている。
何よりも大切なのは、自立する事である。
世の中に一人前の社会人として生きていく為には、社会的にも、経済的にも自立しなければならない。

では、自立した人とはどの様な人を指すのか。
そこに、道徳教育にたいする一つの答えがある。
自立した人というのは、自分の価値観に従って、自己責任の下に考え、判断、決断し、行動する事ができる人である。

では、生まれてすぐに自立できるのか。
生まれたばかりの赤ん坊は、自立するどころか、一人の力では生きていく事もできないのである。
生まれた時、人は、言葉を理解することも、対象を識別することも、文字を読むことも、書くことも、自分の判断で食事を取ることもできないのである。放置したら死んでしまう。
やれ主体性だ、個性の尊重だなんてきれい事ばかりを言う現代教育の欺瞞性がそこにある。
自分一人では何もできない赤ん坊に個性だの、自主性、主体性など要求すること自体、どうかしている。
だから、人として社会の中で生きていく為に、最低必要限度の価値観は、保護者が責任を持ってむ刷り込む必要があるのである。
主体性や個性は、最初に保護者、主として親が子に与えた価値観を自分のものにする過程で取捨選択し、また、磨くことによって形成される事なのである。

昔、道徳教育は、宗教が担っていた。つまり、神の名を借りて、力を借りて人がしてきたのである。
その事実を否定したら、何も始まらない。
なぜなら、道徳というのは、ある種無条件に自己を超越した存在によって絶対的な事として認識されなければ効果が期待できないからである。
道徳の背後には恐れがある。罪や罰が前提となる。道徳に反する事は罪であり、罰が当たるから守らなければならないのである。それは内面の魂の問題である。
だから神を恐れる必要があり、信仰の問題がなければ効かないのである。
道徳を働かせるのは自制心なのである。
だから、道徳がなければ主体性は保てないのである。

しかも道徳の根本は万人に受け入れられる事でなければならない。
万人に受け入れられる事でなければ、社会の礎にならないからである。
だから、誰しもが当たり前で当然なことと考える事。つまりは、道徳と言っても難しいことではなく、わかりやすく単純明快なことなのである。
あまりにも当たり前なことしかないので、人はそれを軽視し、馬鹿にする。
しかし、その当たり前なことが大切なのであり、それを守り通すことは難しい。
道徳の基礎というのは、十善にしかず。せいぜい言って十箇条程度なのである。
例えば、汝殺すなかれ。盗むなかれ。欺く事なかれ。傷つける事なかれ。姦淫する事なかれ等である。

道徳なんて難しいことではない。ごくごく当たり前で誰もが当然だと思っていることである。
ただそれがなければ、社会を構成することも維持することもできないような基本的事である。
当たり前であり、当然なことだから、何らかの取り決めや成文化された法のようなものがあるとはかぎらない。
ただ暗黙の取り決めであり、常識の類いなのである。

それは直感的なことであり、ある意味で人として自明なことなのである。
しかし、それを一生通して守り抜くというのは甚だ困難なことなのである。
それが道徳である。
だから、道徳というのは、哲学的とか、客観的、論理的と言うよりも直感的、情緒的、主観的な事からなのである。
故に、道徳は、哲学的と言うより、宗教的な事柄なのである。

論理と倫理の違いはその点にある。

道徳は、言うは易、行うは難しなのである。

戦後の日本は、仁義が忘れられて礼だけが残った。故に、礼節は、形骸化し、やがて廃れていったのである。
道徳が失われたら礼節は意味がない。
だからといって礼節を蔑ろにしていいというのではない。
戦後の教育は、日本人としてのアイデンティティを否定したところから始まっている。それが日本人の魂をむしばみ、日本の文化伝統を根底から覆す事になりつつあるのである。
今こそ、日本人は、原点に立つ帰り、日本人としてどの様な道徳を持つべきかについて議論すべきなのである。



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