神について思う

差  別




人は、自分が他人を差別していないと思う事自体間違いなのである。
人は、他人を認識し、自分と他人とを識別した時から人を差別している。
人は他人を差別しなければ、自分を知る事はできない。
人を以下に識別しているかによってその人の有り様は定まる。
人は、他人を差別している事を自覚し、不条理な理由や根拠で他人を差別していないかを細心な気持ちで注意、反省する事が大切なのである。
好きな人や嫌いな人がいて当たり前である。
つきあう相手を選ぶのも当然である。
正否善悪を明らかにする事も大切である。
しかし、それら一つひとつが人を差別する事につながっている事になる。
差別を悪だとして差別主義者を弾劾するのも差別である。

好きだ、嫌いだという感情が起きたら、その瞬間に、他人を好きか嫌いかで差別している。
好き嫌いの感情を否定しても意味がない。
ただ、なぜ嫌いなのか、なぜ好きなのかの原因を探る事に意味がある。
好きな者は好きだ。嫌いな人は嫌いだと言ってしまえばそれまでである。
嫌いな理由、好きな理由の背後に自分の本当の姿が隠されている。

人を何に基づいて認識し、識別するのか。
人柄によって識別するのか。
品性によって識別するのか。
能力によって識別するのか。
実績、功績によって識別するのか。
価値観によって識別するのか。
信じるものによって識別するのか。
人相で識別するのか。
姿形で識別するのか。
家柄で識別するのか。
学歴で識別するのか。
血統血筋で識別するのか。
人種で識別するか。
何に基づいて相手を評価するのかが大切なのである。

人を差別するのは人である。神ではない。
神は超越者である。
超越者である神は人を差別したりはしない。
神が明らかにするのは自分と神との有り様である。
そして、それは自分の有り様を定める事なのである。
何が正しくて、何が間違っているかではなく。
何を正しいとし、何を間違っているかとするかである。
不条理な理由で人を差別すれば、自分も不条理な理由で差別される事になる。
人を差別する為に神に選ばれるわけではない。
自分と神とが一対一に向き合う為に選ばれるのである。
弱き者は、自分より弱い者を差別して、弱き者を虐げる。
強き者は、自分より強い者を差別して、自分をより強くしようと切磋琢磨する。

何によって、何に基づいて人を認識するのか。
それが大事なのである。

善と悪とを差別し、善を愛おしんで悪を憎む。
それも又差別である。

人は差別する自分と向き合った時、本当の自分の姿が見えてくる。
神はその背後に超然として存在する。



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