神について思う

宗教と政治



これだけは強調しておきたいと想います。
暴力的手段によっても本質的な問題解決には至らないと私は想っています。
ただ、これは私個人の信念に過ぎません。
多くの宗教は、暴力的な部分を内包していますし、それを否定しきれない部分があるのも事実です。
ただ、私は、神の名の下の暴力を是としないだけです。

初期のキリスト教徒は、皆、ガンジーのように非暴力、無抵抗に徹しました。
そのために多くの殉教者を出したのです。
迫害と殉教がキリスト教を純化し、強靱なものにしていったのです。

なぜ、キリスト教国で近代国家の礎である民主主義や科学が発達したのか。
それは、キリスト教に異端者や異教徒にも寛容で、自由を尊ぶ精神があったからだと思います。

イスラムも本来は、その寛容さがあります。
ただキリスト教は、その根本、隣人愛があったからだと思います。
そして、唯一の神を中心に据え、普遍的な原理、愛を根本としたことが、民主主義に結びついたのだと想います。
更に、イエスの十字架上の死です。

唯一神と言っても、排他的ではなく普遍的だからこそ、民主主義や科学を結局は容認し、近代への道を開いたのです。
世俗的権力と絶対的権威を切り離した事が決定的だと想います。

聖的な存在、絶対的権威が世俗的権力と結びついた時、宗教の堕落が始まります。
だから聖職者は政治に対して潔癖であれというのです。
それは、政治に対して無関心でいろというのとは違います。
世俗的権力に阿る事なく純粋の信仰の延長線上で政治と対峙せよと言う事です。

この世の人を救おうとしたら、俗事にかかわらずにはいられません。
俗事に関われなければ絵空事です。虚しい。
個人の信条としても政治から逃れられはしません。
例えば、ユダヤ教徒は、ユダヤ教を信じていると言うだけで虐殺されたのです。

キリスト教は、政治を改革し、歴史を作ってきました。
キリスト教国の正当の多くは、キリスト教の名をかし、キリスト教の改革運動こそ、民主主義の歴史そのものなのです。

政治に関わってならないというのは、長いこと禁教の元に弾圧を受けていた日本だけの事です。
キリスト教は、最も先鋭的であり、政治的であり、革命的だからこそこれだけ拡大したのです。
俗事に関わらないなんて事は外国のキリスト教では考えられない。
俗事に関わるからこそ宗教の意義がある。
大体、政治はキリスト教から生じたという説もあるくらいです。

民主主義がキリスト教から生じたと言われるようにです。アメリカは、迫害を逃れて新大陸にやってきたキリスト教徒によって建国された国というようにです。キリスト教徒は積極的に政治に関わってきました。反戦も自由もキリスト教徒だからです。
今のアメリカをリードしているのもキリスト教の一派です。

宗教、特にキリスト教は、政治に関わるなと言うのは、江戸幕府の考え方です。だから鎖国したのです。キリスト教徒が政治に関わるなと言うのは、鎖国の延長線上にあるので、キリスト教徒はまったく相容れない思想です。

キリスト教にも急進的左派も右派もいます。
アメリカには原理主義者もモルモン教徒の州もあります。アーミッシュのような人々もいます。
大体、アメリカそのものが母国の弾圧を逃れてきたピューリタンが建国した国です。
だから、裁判の時も、大統領の就任式もバイブルの手を乗せて誓わされるのです。
重要な施策を発表する際、聖書から言葉を引用するのは常套手段です。
キリスト教徒政治を切り離して考える国は日本以外にもいません。
だから今、中東で起こっている事、フランスで起こったテロの問題等、日本人には理解できないのです。
ベトナムやタイ、ミャンマーでは仏教の僧侶が政治を主導し、焼身自殺までしています。
ネパールでは、ラマ教の僧侶が闘っています。
中東問題とやユダヤの問題は切り離す事ができません。
イスラム教国では未だに金利を認めていない国すらあります。
トルコでは、イスラム教に近い政権による独裁問題があり。
ナチスの占領下、共産主義時代でも頑なに信仰を守り続けてきた人たちがいるのです。
ユダヤ人が虐殺されたのは記憶に新しい事で、それによる戦後の政治は変わってきました。
イスラエル建国が中東戦争、オイルショックの布石となり。
アフガニスタンやシリア、イラン、又テロはイスラム原理主義者が起こした事件。
911もしかりです。
政教分離は詭弁に過ぎません。
それは国家理念として国家体制、仕組みとして政治と宗教を分離すべきだという意味でしかありません。
思想信条としての宗教と政治は切り離す事はできません。
政治家も一個の人間であって、だからこそ、自分が何を信じているかを明らかにする必要がありますが、政治家として自分の信条に反する行動をとる事こそ問題なのです。
故に、宗教と政治は切っても切れない関係にあるのです。
最近のイスラム原理主義にしてもキリスト教原理主義にしても
宗教が絡むと過激になる事が多いのです。
それは、仏教も儒教も同じです。

キリスト教国で政教分離を言うのと無神論の国で政教分離を言うのは次元が違います。
日本人は、錯覚しているというか、民主主義を誤解しています。
欧米で民主主義を成り立たせているのは、神だという信仰があります。
でなければ人民の血で革命を起こすなどという思想は生まれません。
無神論的革命というのは、唯物論者が言う事で、彼らだって宗教的熱狂がなければ革命なんて起こせない事は百も承知しています。
いずれにしても神との対話なくして思想も、科学も生まれません。
その点に無理解だから、日本人は、国際的に受け入れられないのです。

革命なんて信仰心のような堅い信念がなければ成就しないのです。




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