2001年1月6日

神について思う

責任は生き甲斐の源である。


 神は、人間、一人一人に責任をもたせている。
 人間は、存在する事、その事自体に責任があるのだ。
 そして、その責任こそが存在することの証(あかし)なのである。
 故に、責任は、あらゆる権利、権限、義務の源なのである。
 つまり、自由の根源なのである。
 また、平等は、その責任において成り立っている。
 生きている限り何人もこの責任から逃れることはできない。

 生きる事の責任とは、生かされている事による責任なのである。
 そして、それは、我々を生かす者と存在する者全てに対する責任なのである。
 神と、生きとし生きる者への責任なのである。
 人は必要とされるから責任が生じる。
 必要とされなければ責任は生じない。
 必要とされる事により、存在価値が生まれる。
 存在意義が、生まれる。
 必要性は、責任の母である。
 責任は、存在意義の原点である。
 故に、神の意志である。
 神は、人間、一人一人に責任をもたせている。
 そして、それは、その人の存在意義なのである。
 人が、守るべき責任、それは天命である。使命である。

 責任を持たされるなどと言うと重苦しく感じる者もいるかもしれない。
 しかし、責任を持つという事は、本来、生きる喜び。生き甲斐だ。
 子を産む時に感じる、喜びと責任感が好例である。
 人としての責任とは、母となる喜びと伴に感じる責任感である。
 その喜びも責任感も失せてしまったら、人としておしまいである。

 人は、何のために生きるのか。
 それは、世の為、人の為、愛する者の為に生きるのである。
 そして、それは、ひいては自分の為に生きることになるのである。
 世の為、人の為、愛する者のために生きることは、
 自分の為に、自分を生かす為に、生きることなのである。
 それが、責任の本性である。

 生きると言うことは、鬱陶しくて、煩わしいことである。
 人を愛すると言う事は、鬱陶しくて、煩わしいことを引き受けていくことである。
 鬱陶しくて、煩わしいことが厭なら、何もできない。
 鬱陶しくて煩わしいから生き甲斐があるのである。
 やりがいがあるのである。
 鬱陶しくて、煩わしいことに喜びを見出した時、
 人は生き甲斐を見出し、愛する喜びを知る。

 責任は、負担ではない。
 むしろ、喜びである。
 責任を負担と感じるか、
 喜びと感じるかで人の一生は、全く違うものになる。

 責任感は、心の奥深いところで倫理観、モラルを醸成する。
 責任感は、道徳の核であり、種である。
 それ故に、責任感は、私を生かす者(神)に対する責任であり、
 また、自分に対する責任である。
 周囲の人間に迎合せずに
 自己の考えを主張を貫き通すのは、
 自己の責任感の為せる業である。
 責任を持たされるようになることによって、
 自他共に、自立した、一人前の人間として認められるのである。
 故に、責任を持たされるという事は、名誉なことであり、
 誇りの源泉なのである。



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